社主の出版随想
▼1978年夏の頃だった。いつもの渋谷の京王レストランでビールを飲みながら、K氏は、『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌を開きながら、今フランスでソ連に関する2冊の本がベストセラーの上位を占めていることを教えてくれた。1冊は、ユマニテのソ連特派員だったケアヤンの『赤いプロレタリア通り』、もう1冊は、カレール=ダンコースの『崩壊した帝国』。
▼ソ連ものは、出版界ではまず売れないジンクスがあった。勿論、19世紀から20世紀にかけての文豪トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、ゴーリキー、プーシキンなどの作品は別にして、戦後の社会主義体制下の仕事に面白いものはなかった。唯一ソルジェニーツィンのソ連批判の小説や批評は読まれたが。
▼しかも、前2作は、ソ連について仏語で書かれたもの。訳者探しが大変。前著はまだしも、後著は、400頁もある大冊。ソ連邦の各々共和国、自治共和国の人口、言語、宗教、民族問題などを綿密に、これまでにない新鮮な切り口でソ連邦国家が分析されている。K氏からT氏はどうか、と。仏で問題を起し新聞沙汰にもなった方だが、とにかくできるT氏に決めた。前著は、80年8月に出版されるや、朝日新聞で、都留重人氏がこんな面白い本はない、と絶賛紹介され版を重ねた。
▼後著は、81年2月に出版。朝日・毎日・読売・日経が、一斉に書評してくれた。500頁を超える大冊だが、瞬く間に知識人の間でも話題になっていった。ソ連ものとしては初めての快挙ではないか。その話題の本の著者が、エレーヌ・カレール=ダンコース女史である。翌年、国際交流基金の招きで来日された時に、はじめてお会いできた。当時齢50過ぎか。美しい方であった。しかもそのバイタリティには感服した。その最後の夜、食事にお誘いした。銀座のレストランか新宿の居酒屋、どちらが好いかと尋ねると、新宿がいいと云われたので、紀伊國屋の創業者、田辺茂一氏も愛好したという3丁目の池林房にご案内した。懐しい思い出である。
▼2018年12月、アカデミー・フランセーズから文芸賞という栄誉を戴き、授賞式に列席した。ルーブル美術館の対面にあるアカデミー・フランセーズで再会した。美しさと若々しさは相変らず。「あの新宿の夜のことは憶えていますよ」と微笑みながら言葉を交わして戴いたことは、望外の嬉しさである。合掌(亮)
9月号目次
■旧ソ連の崩壊を13年前に予言した『崩壊したソ連帝国』を出版!
アカデミー・フランセーズ終身議長、H・カレール=ダンコース氏死去
山口昌子 「不思議な運命」
袴田茂樹 「プーチン認識をどう変えたか?」
■「無知」から描き出す、人間の想像力の歴史
A・コルバン 「未知なる地球――無知の歴史」
■百年前、こんな面白い雑誌が存在した
尾形明子 「大正期の異色の雑誌『女の世界』」
■人間にとって“月”とは何か
津川廣行 「低い月、高い月――月の文学、物理の月」
■多文化共生の条件(社会思想史研究47号)
〈連載〉山口昌子 パリの街角から9「酷暑(カニキュル)」
田中道子 メキシコからの通信6「麻薬マフィア対策」
宮脇淳子 歴史から中国を観る45「関東軍はロシア革命後に生れた」
鎌田 慧 今、日本は53「再説「水に流す」思想」
村上陽一郎 科学史上の人びと6「ハーヴェイ」
小澤俊夫 グリム童話・昔話6「昔話の語り手たち」
方波見康雄 「地域医療百年」から医療を考える29「後藤新平『生を衛る』の萌芽2」
黒井千次 あの人 この人6「ハンガリーの人」
山折哲雄 いま、考えること6「「貧乏」と「格差」」
中西 進 花満径90「目の話(7)」
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