2010年07月01日

『機』2010年7月号:「仮想戦争」とは何か 白須英子

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9・11と「仮想戦争」

 本書の冒頭には、たまたま積み残された9・11のハイジャッカーの一人の旅行カバンから発見された「最終的実行指令書」のような奇妙な文書が引用されている。この文書を「ハイジャッカーの心のなかで行なわれる儀式めいたドラマを盛り上げるためのおごそかな宗教儀礼……どれもリハーサルずみの一瞬一瞬を描いた台本のように読めた」のは、著者がムスリム文化圏の出身だったからであろう。
 イスラーム世界には、巡礼月の一〇日に犠牲祭と呼ばれる行事があり、神への捧げものとして羊を屠り、その肉を参加者一同と分かち合って祝う祭礼がある。これは一種の神事であるから、屠殺者は神官のように心を浄めて祈りを捧げ、犠牲として捧げる動物の苦痛が少ないように、ナイフ一本で手際よく行なうのが慣習になっている。「聖句を唱えつつナイフを研ぎ、切れ味を確かめよ、生け贄に苦痛を与えてはならぬ」というくだりを読むと、あのハイジャックを宗教儀礼に似たパフォーマンスと見た著者に妙に納得させられる。
 9・11の攻撃は、すでに進行中の「仮想戦争」への誘惑だったと著者は言う。「われわれにつくか、テロリストにつくか、どちらかだ」というブッシュ元大統領の言葉は、世界中に放映されるテレビ・カメラの前で、だれかにぜひ言わせなければならない「仮想ドラマ」の台本の重要な台詞だったのだと。

アイデンティティをめぐる闘い

 本書は、そのハイジャッカーたちとほぼ同世代の、テヘラン生まれのムスリムである著者が、宗教史・宗教学の知識をもとに、世界各地を精力的に飛び回り、深い洞察力に満ちた作家の目と感性で実際に観察して綴った、宗教的行動主義者、すなわち「仮想戦士」たちの動機とその背景を探る物語である。
 焦点は、「なぜ、今日、宗教的行動主義者たちがこれほどまでに先鋭化しているのか」という疑問にある。ペーパーバック版のサブ・タイトルConfronting Religious Extremism in the Ageof Globalization(グローバル化時代の宗教的急進主義に対峙する)は、グローバル化の進む現時点での「仮想戦争」の実態に、自らの体験を踏まえながら取り組もうとする著者の気構えを示唆している。
 つまり、「仮想戦争」は領土や政治政策をめぐる争いではなく、帰属意識をめぐる闘いであるというのが著者の見解である。危機にさらされているのは、不確定な世界に生きている自分自身の意識であって、それは、標題に含まれている言葉である Globalization(グローバル化)という昨今の現象と大きな関わりをもっている。(後略 構成・編集部)

(しらす・ひでこ/翻訳家)