2010年07月01日

『機』2010年7月号:松岡洋右から蘇峰への手紙 高野信篤

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 二〇〇六年夏、徳富蘇峰記念館にて、松岡洋右が「日米決戦」開戦直後に徳富蘇峰に宛てて送った書簡が発見された。満鉄総裁、国際連盟脱退時の全権代表、外相などを歴任し、三国同盟や日ソ中立条約の締結を実現した松岡は、日米決戦開戦後の経過をどのように受け止めたのか?

松岡洋右と徳富蘇峰

 松岡と蘇峰の出会いは上海総領事館の外交官補の二十四歳頃であったといわれる。彼は「当代支那通の一人でもあった蘇峰に支那問題をまくしたててはゞからなかった」(大橋忠一著『大東亜戦争由来記』)そうである。
 昭和七(一九三二)年十月、松岡がジュネーブ会議の全権に任命された時、蘇峰は珍蔵の『孫子新注』と自著『吉田松陰』を贈った(蘇峰の日誌による)。松岡はこれを喜びシベリア鉄道の車中やジュネーブ滞在中も繰り返し読んだという。そして毎日新聞のジュネーブ印象記で「霞ヶ関も欧州諸国の外交史などを後生大事に読んでいる方は一人や二人ではないようであるが、〔中略〕孫子でも少し読まれたらよかろう」と語っていた。この様に師とも仰ぐ蘇峰であればこそ、以下に示すように直截でかつ赤裸々な書簡が届けられたのであろう。
 当時松岡は病気療養中で、千駄ヶ谷の自宅や御殿場の別荘で過ごしていたが、十二月八日の開戦当日、千駄ヶ谷の私邸に元外務省顧問の斉藤良衛が見舞ったところ松岡は、「三国同盟の締結は小生の一生の不覚……事ことごとく志とちがい、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと死んでも死にきれない」と哭いていたという。しかし緒戦の大勝利で気をとり直したのか、これまでの外交上の失敗を一気に挽回するチャンスと捉え直している。書簡はいずれも考えていることをそのまま書き流しているが、しかも文脈に乱れがない。これまでの強気一本槍の松岡にもどった感がある。
 ではここで、問題の蘇峰宛書簡をみてみよう。

日米開戦の興奮そのままに

 書簡1 昭和十六(一九四一)年十二月十日 夕
 開戦第一日丈の収穫にても、ど偉い事で、恐らく世界戦史特に海戦史上空前の事でせう。「ル」大統領色を失ふと、傳ふ。左もありなん。今日又「シンガポール」にて英の東洋艦隊主力撃滅、マニラ上陸、マレー上陸、実に痛快、壮快! 無論戦争はこれからで、十年の覚悟なかるべからず。これ位で餘り喜んではならぬが、併し緒戦の大々的快報、何と申しても御互に慶せざるを得ませぬ。伊勢大廟を遠く拝せざるを得ませぬ。恐らく英、米の上下を震撼してるでせう! 独と雖ブリッツグリーグ〔ブリッツクリーグか〕の株を奪はれた感がしてるでせう。これで日本も独から見ても鼎呂〔九鼎大呂の略。重く尊いものの意〕の重きをなした。ソ聯も対英米関係に於て、これで牽制出来ると信じます。


  極秘御一読後御焼棄請ふ(外交上卑見は一体禁物なれば)
  〔注 この一行は赤鉛筆で書かれている〕
一、今日ラヂオを通じて御講演を拝聴し得ざりし事 返す返すも残念です。
二、何と言っても米・英殊に米に向って思ひ切つたる宣戦布告の挙に出でたる事により、どうやら大和民族は其世界的使命に堪ゆべく更生の途上に確実に就きしやう感ぜられます。
三、指摘する迄もなく、先生の慧眼、日米交渉顛末公表御一瞥丈にて、如何に日本が愚弄翻弄せられたるか御看取相成りたる事と存じます。凡そ交渉と云ふものは双方(殊に大国の間にては)が一歩一歩交渉の進むにつれ互譲すべきであるに拘らず。右日米交渉に於ては一歩一歩、案を修正する毎に米は露骨となり、段々と、より強硬にして日本に不利なる申立てを行ひ、非礼暴慢を極めた。拙者退官以来の経過は生不聞、併し今回の公表を見て生の想像の当り居たりしを知りました。実に言語同断なる譲歩にして若し、米大統領が一と先づ之を承諾したりしならばと想ふと、今でも膚に粟を生じます。併し皇国に天佑がありました。あんな自惚れの強い馬鹿な先生が交渉の相手であつた事が何よりの天佑でした。


*便箋欄外の書き込み
 小生在官終末ニ近き頃、驚くべき経緯あり。(秘しあり)コレを志士知らば、眦まなじりを決せん歟!
(後略)

日米交渉の経過の批判

 開戦二日目の書簡はまさに開戦劈頭の興奮を伝え、緒戦の多大な戦果に欣喜雀躍、独の電撃作戦になぞらえている(ブリッツクリーグ)。「三」に指摘されたのは、ハル・ノートに至る日米交渉の経過を批判したものであるが、その直前の日本提案よりハル・ノートに至る経過をみてみよう。
 東条内閣の仕事は開戦の準備ではあったろうが、その一方で戦争阻止の努力も続けられた。十一月二十日、野村大使は新しく補佐官として渡米した来栖大使と共にハルを訪れ、日本の最終提案を手交した。その内容は日本が仏印以外の東南アジアにこれ以上武力進出を行わぬことを条件に、アメリカが資金凍結以前の状態に通商関係を戻し、蔣政権への援助をやめる等の項目であった。
 これに対し十一月二十六日、アメリカから最終回答として手交されたのが有名な「ハル・ノート」である。その主な内容は次の通りである。
一、ハル・四原則の無条件承認
二、南京国民政府(汪兆銘政権)の否認、重慶政府(蔣介石政権)以外は一切認めず
三、中国大陸からの全面的撤兵
四、満洲国の否認
五、日本の三国同盟からの離脱要求


 一読してわかるようにこの内容は、けんかの果し状である。昭和初年以来の日本の大陸政策を知る外交官ならば、このような破壊的な提案は出来ないはずである。
 ハルの回答を受け取った当時の外相東郷重徳は「目も暗むばかりの失望に驚かされた」と記し、政府、軍幹部も怒った。米側の要求に従えば日本は日露戦争直後の状態に戻れということで、これを受け入れれば再び政治テロ、クーデターも予想されたことであったろう。また当時三国同盟離脱は何としても呑めない要求であった。
 これより以前米国は、対独戦で苦境に陥っている英国を救うために自国の軍事産業を総動員して、英軍の装備の充実、艦船の補修、艤ぎ装そうに大童の情況で、英国の回復までの時間稼ぎがどうしても必要であった。即ち太平洋に戦端を開く余裕も、民意の高まりも無かったのである。
 ところが独の対ソ開戦で、独の精鋭地上部隊、空軍ともにソ連戦線に投ぜられ、英国最大の危機は去ったのであった。
 対ソ戦当初、破竹の勢いの独軍は思いがけぬ大雨と湿地帯に足をとられ、自慢の機甲部隊の進撃は鈍り、モスクワを前に、全てを氷に閉じ込める恐ろしいロシアの冬を迎えつつあった。米国にとっては、これで戦争に突入しても大丈夫という環境が出来たのである。

(後略 構成・編集部)
(こうの・のぶあつ/徳富蘇峰記念塩崎財団 理事)