2006年10月01日

『機』2006年10月号:幻影のベルリンへの旅 和田博文

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●「上海」「パリ」に続く好評「言語都市」シリーズ第三弾、「ベルリン」!

 現在の私たちにとってベルリンの印象は、ロンドンやパリに比べて稀薄である。この都市名から連想するのは、冷戦時代はベルリンの壁くらいだった。いま街を歩いていても日本人観光客に出会うことはあまりない。しかし第二次世界大戦以前はそうではなかった。日本人のベルリンの記憶は、ヨーロッパの他の主要都市に比べて少なかったわけではない。
 三年前にベルリンを訪れたとき、私はこの都市の景観から二つの特徴を感じた。ツォー駅を出ると、カイザー・ヴィルヘルム記念教会の異様な姿が目に入る。天に向けてそびえ立つ廃墟は、第二次世界大戦の空襲の激しさを語っている。ツォー駅の南側には、日本人村と呼ばれていたエリアがある。日本人会、日本料理店、日本人商店が集中し、日本人の理髪師までいたという。しかし番地を頼りに歩き回っても、そのような雰囲気は感じられない。新しい建築が建ち並び、通り自体が消滅していることもあった。
 記念碑となった廃墟と新市街――ベルリン都市景観の二つの特徴は、現実の都市より幻影の都市に向かうように、私たちの背中を押した。たとえばベルリン・オリンピック大会の一九三六年に、この都市で『独逸案内』(欧州月報社)という一四四頁のガリ版の本が発行されている。編集したのは、京大卒業後にライプチヒに留学し、ベルリン大学に移ってから日本人会主事を務めた野一色利衛。日本人の視線で都市を紹介し、日本語広告も多数掲載した一冊からは、当時の日本人が生きたベルリン都市空間が濃密に立ち上がってくる。
 幻影のベルリンへの旅は困難を極めた。言語都市(=日本語で記述された都市)の全体像を追いかけるときに、戦前までの日本の出版物でベルリン体験記を収集することは、時間さえかければ可能である。しかしベルリンでの日本語出版物はなかなか出てこない。『独逸月報』の大部がドイツのベルリン国立図書館でようやく見つかったのは、今年に入ってからのことだった。
 ロンドンやパリに比べて、ベルリンは研究者や留学生が多かった。一九二二年を例にとろう。ロンドンの日本人九九八名を職業別に分類すると、①「会社員、銀行員、商店員、事務員」約三五%(三四七名)、②「官公吏、雇員」約一一%(一一〇名)、③「教育関係者」約七%(六九名)の順番になる。パリでは四七二名のうち、①「官公吏、雇員」約二九%(一三五名)、②「写真師、画家」約二一%(九七名)、③「学生、練習生」約一一%(五二名)。それに対してベルリンの場合は、四一〇名中、①「学生、練習生」約五〇%(二〇六名)、②「医師」約一一%(四七名)、③「視察遊歴者」約七%(三〇名)である。ロンドンは「実業の都」、パリは「芸術の都」、ベルリンは「学都」の観を呈していた。
 おのずから本書の第部で立項した二十五人も、研究目的で渡独した人が多い。哲学者の和辻哲郎はもとより、森zハ外は医学研究のため、寺田寅彦は宇宙物理学研究のため、山口青邨は選鉱学研究のためにベルリンに滞在した。日本近代の「知」の世界は、多くをベルリンから受け取ってきたのである。だがそれは学問の世界だけの話ではない。第部で取り上げたように、日本のクラシック音楽も、機能性を重視した建築・デザインも、新劇や築地小劇場も、新興写真も、ノイエ・タンツも、ベルリンからの波動なしには考えられない。ベルリンへの旅で私たちが見つづけた幻影が、本書で確かな輪郭を獲得していることを願っている。

(わだ・ひろふみ/東洋大学教授)