ジョルジュ・サンドが1837年、三十三歳で発表した『モープラ』は、著者――彼女のペンネームが示すように「青年作家」ということになっている――が友人とふたりで地元の名士ベルナール・モープラのもとを訪ね、すでに妻を亡くして八十歳を越えたこの老人に、二日間にわたって妻との生活を振り返ってもらうという体裁の小説である。
出生や身分を越えた「変身」
貴族の嫡男として生まれながら、七歳で孤児になった語り手は、没落して山賊になり果てた祖父とその七人の息子たちの根城ロッシュ=モープラに連れてこられるが、十七歳のある激しい嵐の日に館に迷い込んできた遠縁のエドメに一目惚れし、彼女とともに館を脱出する。そしてサント=セヴェール城に住むエドメの父親に引き取られ、エドメの愛に導かれながら、野獣同然の身から有徳の人へと生まれ変わる。
しかし、この小説で生まれ変わるのは、ベルナールだけではない。多くの登場人物もまた、変身を遂げる。一介のモグラ捕りでありながら、アメリカの独立戦争に参加し、帰国後はロッシュ=モープラに出没する亡霊の正体を暴こうと探偵まがいの能力を発揮したり、エドメ狙撃事件でも真犯人逮捕のために大活躍するマルカス。ガゾー塔に独居して未開人のような生活をしていたせいで「魔法使い」呼ばわりされていたのに、エドメの慈善事業を手伝うようになったことによって、村人たちから「偉大な判事」として尊敬されるようになるパシアンス。悪辣なモープラ兄弟のボス格から敬虔なトラピスト会修道士に変身するジャン……。
しかし、いちばんの変身を遂げるのは、やはり語り手のベルナールだろう。ある日エドメにふたりの結婚の可能性をほのめかされ、そのためには教養をつんで自分の夫にふさわしくなってほしいと言われてからというもの、彼は猛然と勉強をはじめる。意中の女性の命令とあればどんな苦難もものともしないその姿には、中世の宮廷風恋愛における騎士道精神を思わせるものさえある。
半世紀後退した時代
フランス大革命を目前にひかえ、誰しも出生や身分を越えた「変身」が可能な時代を迎えつつあった、ということだろうか?
しかし、ひるがえってサンドが生きた時代を眺めてみると、エドメやベルナール(1757年生まれと想定される)より半世紀近く遅く生まれたサンドの時代は、モグラ捕りや未開人にいたるまで自由思想の洗礼を受けた世代よりはるかに後退していたといわざるをえない。
サンドは『モープラ』の執筆と前後して、夫カジミール・デュドヴァンとの別居訴訟を起こしている。大革命のさなかに成立した離婚法は王政復古期に廃止されたため、夫との結婚生活が耐えがたくなった彼女に残された唯一の道がそれだった。彼女は実生活で真実の愛と結婚を一致させることができなかった分、結婚のあるべき姿を小説のなかで探求しようとしたと思われる。
至上の恋愛小説
とはいえ、哲学書であろうとしたわけではないこの作品は、主題の重さに押しつぶされているわけではない。「美女と野獣」的な筋立てや、幽霊さわぎや暗殺事件などサスペンスに満ちたゴシック・ロマン風の展開、そして大革命前夜のベリー地方の濃厚な雰囲気が、無条件に読者を楽しませてくれる。本書は、サンドの豊かな教養と想像力が結実した、教養小説、社会小説、歴史小説、暗黒小説などさまざまな要素をもちあわせた至上の恋愛小説なのである。
(おぐら・かずこ/立教大学教授)