終戦の虚脱から敗戦処理内閣へ
1945年8月15日が革命であったかどうか、そもそもそこから議論は始まるわけですけれども、多くの日本の国民にとって8月15日というのは、いろいろな受け止められ方は確かにあるけれども、大別すると多くはほっとしたと。ほっとしてその日を迎えた。
というのも「戦争状態」があまりにも長く続いていましたから。満州事変を起点としてずっと日本は非常時といわれて、その中で次から次へと大陸と戦争状態に入り、そして最後は宣戦布告をして日米戦争に入ったわけですから。そういう点で言うと、どういう形の解決であるにせよ、ほっとしたというのが非常に大きかったのではないかと思います。
そこから今度は次の時代に入っていくわけですけれども、日本国内で考えても、GHQから見たとしても、戦犯容疑者でない総理大臣は、やはり十五年戦争の前にまで遡らざるを得ず、幣原外交で有名な幣原喜重郎を連れてこなければならなかったというのが象徴的なんです。
幣原から、吉田、片山、芦田、そしてまた吉田と続いていくこの占領期の政権で、非常にはっきりしているのは、幣原を除けば、吉田とか芦田という人たちは、既に戦時期にある程度和平工作に関与し、日本が再び平和になった暁にはどういうことをやったらいいかを、逼塞状態の中で考えていた人たちです。こういう人たちが復活して、政権をとることになるわけです。
ニューディーラーと大正デモクラシー
一番大きかったのは、戦前の戦争責任にある程度関与したということで、多くの政治家、財界人をその地位から追放したというんですね。そこで一種の権力の真空ができてしまった。その権力の真空に、GHQはうまくはまってくるわけです。GHQは最初から自信があって日本の統治をやろうと思っていたわけではない。日本の統治に対して楽観的な意味での自信があったのは、アメリカで自分たちの意思をあまり通すことができなかったニューディーラーたちです。彼らは、日本で民主主義の実験をやるんだと言って来た。それで、戦争に関与した上層の人たちがみんな一斉に抜けてしまった後、残された人たちとGHQの人たちが戦後の政治・経済に携わっていく。
そうなると何がよるべきものになるかというと、GHQ=アメリカはニューディーラーが中心ですから、日本において「民主主義的」な、デモクラシーにのっとった改革をやろうとする。デモクラシーにのっとった改革というときに、アメリカ人たちが頭に考えていたのは、自分たちの国で達成できなかったニューディール的なものをより徹底的にやることでした。
日本の側は、しかしデモクラシーの伝統がなかったわけではないと、こう思うわけですね。幣原に象徴されるように、大正デモクラシーという時代があったと。政党政治がかろうじて日本でも成立した時期があって、この時代の精神ないし政治的な志向をもう一遍復活させて、それをさらによくしていけば、戦後デモクラシーは出来上がるんだと。だから、日本の方は、過去のとばりの中から「デモクラシー」の“古証文”の如き歴史的なものを引きずり寄せる。アメリカの方は、自分たちの国でできなかったバーチャルな革命あるいはバーチャルな改革をたぐり寄せる。この二つが現実にぶつかり合ったのが、占領政治だったと思うわけです。
「異民族支配」との折り合い
このことがある意味で大事なのは、日本は近代に限らずずっと古の歴史から、異民族統治をされた経験がないことにかかわります。そうするとこの時点で初めて、無条件降伏ですから完全にお手上げをして、軍事的には全部解除されて、そこに米軍という異民族が入ってきて支配を受けることになった。このかつてない占領支配という状況にどう適応していくか。しかし人間というのは、かつてない事態が来たというふうにはなかなか思わない。昔あったある種の傾向性を今に復活させるんだという話になるわけです。
米軍の方も、ずっと日本の状況を見ていて、まず直接統治はやめる。これは非常に大事ですね。東久邇宮内閣のときに、既に直接統治はやめます。そこで最初の妥協が成り立つわけです。間接統治で、しかし民主主義的な傾向性を復活させるという大義名分の下で、今度は米軍と日本側とのせめぎ合いが始まるわけです。
日本国憲法という衝撃
次に、日本国憲法が米軍による押しつけ憲法であったという話が、昭和21(1946)年に出てくるわけですが、これがなぜ日本にとってショッキングであったかというと、日本はデモクラティックな傾向性さえ復活させれば妥協できそうだと思っていた。人によっては大日本帝国憲法の手直しですらしなくてもいいと思っていた。あれを最大限デモクラティックに解釈しさえすれば、つまり解釈改憲でいけるんじゃないかと。そうでなくても、ある程度の手直しで行くはずだと思っていた。
それが突然、米軍の方から周知の翻訳憲法が出てきて、これでやれと言われる。これはもう本当にショッキングな出来事だった。いつ元に戻るかわからない状況だから、そこに歯止めをかけるためには、やはり憲法という統治体系の一番重要なところに関して言えば、アメリカがつくった憲法草案でやっていかなければいけないということで、これを押しつけるわけですね。
ほかのことについてはアメリカも随分譲歩したのに、憲法だけは、ちょっとでも変えることは許さないと。それはおかしいと思っても、「おかしくない、これがおまえたちの憲法だ」と言われて。白洲次郎なども、「あのときぐらい、占領とはこういうことなんだと骨身にしみてわかったことはなかった」と言っていますね。反抗しようと何しようと、「おまえは占領されているんだろう、何を言っているのか」と。それは悔しかったと思いますよ。
いわゆる親米派と言われて、割と軟弱だと思われている宮沢喜一さんが、心情的にはあまり親米でないのは――政策的には親米派なんだけれども――、やはりあの当時に彼もそういう状況を見ているわけです。「占領軍が解放軍だなんて思ったことは一度もなかった」と、彼は言っています。彼なんかはまさに大蔵省にいて、やってきたニューディーラーやその連中と現実に交渉したわけですね。そういう中で、向こうのいろいろな意向を押しつけられる。白洲次郎も宮沢さんも英語はよくできたと思いますけれども、まさにその英語の世界の中で占領軍と対した人たちは、本当に占領されたという気持ちを持ったのではないですか。(後略)(談)
(みくりや・たかし/日本政治思想)
※全文は『環』号に掲載(構成・編集部)