2004年12月01日

『機』2004年12月号:愛の歴史へのプロローグ D・シモネ

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愛の歴史を紡ぎ出す
 本書はもっとも偉大な歴史家、哲学者、作家たちとともに、愛という情熱的な冒険を論じる試みである。誘惑、出会い、情熱、エロティシズム、性、結婚、貞節……かつて西洋では人々がどのように愛し合っていたのか。各時代の理想はどのようなものだったのか。その理想と現実は近かったのか。親密な関係とは本当のところどのような性質のものだったのか。人々の欲望はどこに向けられていたのか。快楽と感情はどのように位置づけられていたのか。愛の歴史には、ミシェル・フーコー、ジャン=ルイ・フランドラン、ジョルジュ・デュビィといった敬意を表すべき先駆者がいる。しかし時代を超えて連続的な愛の歴史が書かれたことはない。われわれはあえてそれを試みた。
 愛の親密さを発掘するのは困難な作業である。残されたのは束の間の、隠蔽された、あるいは偽装された幻想や表現だけである……歴史の年代記は愛を無視し、戦争の偉業について語るのを好む。公正証書と戸籍簿は愛を卑しい貸借勘定に変えてしまう。残るのは手紙と日記、詩、絵画、素描、彫刻といった芸術と文学ということになる……
 その場合でも、想像と現実を分離しなければならない。芸術はかならずしも真実を語っているわけではないからだ。芸術はしばしばある時代の幻想をさらけ出し、人々が実際に何をしたかというよりも、何をしたがっていたかを伝えてくれるのである。偽りの象徴に欺かれないようにしなければならない。

感情/結婚/性
 話を単純化しよう。愛の歴史は感情、結婚、性という三つの言葉、三つの領域に還元される。あるいはそのほうが好ければ、愛、生殖、快楽と言ってもいい……いずれにしても男と女を妥協させる三要素であり、各時代はこの三要素と戯れ、みずからの利害に応じてある時はそれらを分離し、またある時は結びあわせようとした。
 愛や快楽のない結婚、快楽のない恋愛結婚、結婚という形をとらない愛の快楽……愛の歴史とは、宗教的、社会的な束縛から逃れ、愛する権利という根本的な権利を要求するために女性が(そして少し遅れて男性が)辿ってきた、長い歩みの歴史なのである。

愛の歴史の現在
 現在はどのような状況になっているのだろうか。科学の進歩と心性の変化により、結婚、感情、快楽という三つの領域は今や完全に分離できる。セックスしても子供を作らずにいることができるし、セックスせずに子供を作ることもできるし、愛していない相手とセックスすることは禁じられていない。しかし逆説的な現代の徴候として、われわれはかつてないほど三つの領域を結合させたいと望んでいる。快楽を追求できる持続的な愛、それが現代の理想なのである! だが、われわれに提供されているこうした新たな選択にもそれなりの重圧があり、われわれはそのことに気づいていくらか狼狽している。束縛があっても、まったく自由になっても、愛を生きることは容易ではないのだ。
 今日言われているように愛がホルモン作用の結果だとしても、それは人間の遠い過去と常に結びついている。望むと望まないとにかかわらず、愛の長い歴史はいまだにわれわれの内に生きている。人間の恋愛行動は両親から受けついだ重い遺産だけでなく、それ以前の数多くの世代の重い遺産をも引きずっているのである。われわれはそうと知らずに、古い道徳や、昔からの願望や、秘められた欲望にもとづいて行動しているのだ。そう、愛には歴史があり、われわれは常にその継承者なのである。

(Dominique Simonnet/ジャーナリスト)
(小倉孝誠訳)