2003年05月01日

『機』2003年5月号:邂逅(かいこう) 多田富雄・鶴見和子

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片麻痺の病の中、二人は出会い、日本の学問の新しい地平を開く

多田富雄さんへ
 多田先生、こんにちは。いかがでいらっしゃいますか。
 同病ですけれども、私は最近事故を起こして転倒いたしまして、大腿骨にひびが入りました。それで今、安静にして、ベッドで寝ております。
 そのうえに、私は歯を全部抜きまして、「お歯無しの山姥」となりました。ですから今、歯を入れないでしゃべっておりますので、発音不明瞭かと存じ、たいへん失礼でございますが、このようにして先生とお話をしたいと思います。本当は先生とお目にかかってお話をしたかったのですけれども、こういうことになりまして、ほんとうに残念でございます。
 それから、奥様からのご丁重なお手紙を付けていただき、『脳の中の能舞台』(新潮社、二〇〇一年)をいただきましてありがとうございました。
 先生が『文藝春秋』(二〇〇二年一月号)にお書きになりました、「鈍重な巨人――脳梗塞からの生還」という、ご病気後の記録を、自分のことと引き比べて、たいへん興味深く拝見いたしました。最近の「オール・ザ・サッドン」(『一冊の本』二〇〇二年六月号)も拝見いたしました。
 それから『脳の中の能舞台』は、感動して読みました。『生命の意味論』(新潮社、一九九七年)は、私の専門外でたいへんむずかしい御本でございますが、一生懸命に寝ながら――たいへん失礼ですけれども――読ませていただきました。ほんとうに自分の理解がゆきとどいてないと思いますが、このように拝見いたしましたものの中から、今日、いくつかの問いかけをさせていただきます。私が間違っているところも多いと思いますが、その点はどうぞお直しくださって、お答えいただきたいと思います。(中略)
 それから第二は、先生は金沢でお倒れになって、それから東京の病院にお移りになったときに、病院は隅田川のほとりであった。そこのベッドの上で、声は出ないけれども、頭の中で能の『隅田川』をはじめからおわりまでお歌いになった。それから能の『歌占』(うたうら)もはじめからおわりまでお歌いになった。私は、倒れたその晩から、夢を見ながら体の奥底から短歌が噴き出して参りました。ということは、先生は能という日本の伝統文化によって、私は短歌という日本の伝統文化によって、生死の境を越えた、ということだと思います。白洲正子さんは、偶然見ましたテレビの中で、「自分が倒れたとき、能の『弱法師』(よろぼし)を舞って、そして回生した」とおっしゃっていらっしゃいました。
 先生は、人間の個体は「スーパーシステム」であると定義付けていらっしゃいます。そして人間の作った文化もまた「スーパーシステム」であるとおっしゃっています。そこで、人間の極限状態になったときに、自分が習得した日本の伝統文化――先生の場合は能、私の場合は短歌――が救いになる、つまり生命活動を与えてくれる、つまりスーパーシステムとしての伝統文化とスーパーシステムとしての人間個体との間の、生命活動のインタラクションがある、ということなのでしょうか。つまり、異なる領域のスーパーシステム同士がインタラクションする、相互作用して、生命活動をまた両方にもたらす、という不思議な関係をどうお捉えになりますか。それを、うかがいたいと思います。
 それから第三点は、倒れられる前と倒れられた後と、どのように人生が変わったか、変わらないか、ということについて伺いたいと思います。『文藝春秋』のご文章の中で、多田先生は「ある日、麻痺していた右足の親指がピクリと動いた」と書いてらっしゃいます。そしてこれは自分の中の鈍重な巨人の胎動を意識させた、というふうにお書きになっています。
 私は、倒れてのちの自分の変化を「回生」ということばで表現しております。それは、医者にMRIの映像を見せられまして――私の場合は左片麻痺ですから右脳です――、「右側の運動神経の中枢が決壊した。深部が決壊したから、この左片麻痺は死ぬまで治りません、だから運動はできません。しかし 左側の脳は完全に残っています」と言われました。それで、言語能力と認識能力が残ったから、仕事はできますというふうに言われました。そこで私は、自分が後へ戻れない、「回復」しない、一生これから重度身体障害者として生きるのだということがはっきりわかりますと、そこで、後へ戻れないならば前へ進むよりしようがない、つまり、新しい人生を切り拓くと覚悟を決めました。
 それでどういうことが起こったかというと、まず歌が復活して、自分自身のことばでものを語り、考えることができるようになりました。これまではアメリカ社会学からの借りもののことばでものを考え、語っていた。借りもののことばを捨てたのです。もうひとつは、私は水俣の調査から、人間は自然の一部である、だから人間が自然を破壊すれば、自分自身を破壊したことになるのだ、ということを学びましたけれども、それは理屈だけの話でした。しかし、身体障害者になってからは、毎日の天候によって自分の足の痺れ具合、痛み具合というのは、時々刻々違います。それだけ私は自然に近くなった、ということがよくわかりました。そして鳥の動き、草花を見ても、たとえば燕の飛び上がる姿を考えて、自分でそのようにやってみたら車椅子から初めて立ち上がれたとか、山川草木鳥獣虫魚のふるまい方から自分が学ぶということが初めて出来るようになりました。そのことが、私の新しい人生をいま、形づくっております。(後略)
鶴見和子

鶴見和子さんへ
 目が覚めるようなお手紙をいただき有難うございました。こんなお手紙は胸ポケットにしまって持って歩きたいほどです。
 早速お返事をと思いましたが、左手だけでワープロを打つのは、思いのほか時間がかかるもので、予定より遅くなったことをまずおわびします。これからが楽しみです。ただお断りしておきたいのは、先生と呼ぶのはやめにしましょう。鶴見さんが世界的社会学者で、しかも日本人には数少ない自分の学説を持った学究だというのはよく分かっています。また私より年長であり、この病気についても少し先輩であることも知っています。でも、先生から、先生と呼ばれると、こそばゆくて困ります。こちらも先生と呼ぶと、先生のフットボールのようになるので、鶴見さんと呼ばしてもらいます。
 鶴見さんは最近転倒して、大腿骨の損傷で安静にしておられるとか、どんなに気落ちされたことでしょう。同病でよたよた歩いている私には、転倒がどんなに恐ろしいか、時には命取りになることも良く分かっております。幸い大腿骨骨頭の骨折でなくて良かったと、胸をなでおろしています。落ち着けば、またリハビリ再開でまた歩けるようになるでしょう。今はそれだけを祈っています。
 さて私の状態を申し上げますと、発病から一年を経過し、麻痺がほとんど動かぬものとなっています。私のは左脳の梗塞ですから、右半身の運動麻痺が主ですが、以前にやったと思われる右脳の小梗塞巣の影響もあって、重度の構音障害や嚥下障害を伴っています。右麻痺は私の書字能力を奪い、ほとんどものを書くことができなくなりました。日常の仕事も同じです。(中略)
 今思い出してもあれは突然の発作でした。旅行の間に山形で深酒はしましたが、快い疲れが残るだけでしたし、発作を起こした金沢ではワインのグラスがやけに重いといぶかったのが、そういえばあれが予兆だったかと後で気づくのが精一杯です。後悔しても後の祭りです。
 発作のときも事の重大さが分からず、それに夢うつつで病状を理解できなかったのでした。夢の中で臨死体験のようなことがありましたが、だんだん意識が戻ってきたときは次のようなことを考えました。
 まず片麻痺は、梗塞の程度がどのくらいかによるので、予後が分かるには発作が落ち着くまで待たなければならない。でも症状からいって、容易ならざる状態だということが分かりました。正直言ってうろたえました。
 それより声が出ないのはなぜなのかが、初めは理解できませんでした。それが球麻痺(下部脳神経が侵されたことによる、発声・発語・嚥下・咀嚼・表情の麻痺)による重大な症状であることを理解したのはいろいろな検査で痛めつけられた後でした。どんなに苦しくても、訴えることができないのですから恐怖でした。
 そのうちに病状が安定して、ものを考えることができるようになって、やっと自分が重度の身体障害者として、余生を生きなければならない状況を理解したのです。これが私の病気のノートです。予兆など無かった点は、鶴見さんと同じです。
 その時心配だったのは、重大な脳の損傷があったのだから、もう自分が自分では無くなったのではないか、ということです。それを客観的に調べるには、記憶が保存されているかどうかを確かめるのが一番です。それで暗記しているはずの謡曲を頭のなかで謡ってみたのです。はじめは簡単な『羽衣』のクセでした。このテストに合格したので、次はもっと難しい『歌占』に挑戦したのです。ちょうどこの曲を小鼓のおさらい会で打ったばかりで、覚えているだろうことも確かでしたが、物語の筋が死んで三日たってよみがえった男の話だったから、わが身に引き比べて自然に思いついたのでしょう。
 このテストも合格でしたが、そんな非常事態に謡曲をうなるというのは、どうしたことなのかと後で考えたとき、鶴見さんがご指摘になった第二の問題と関係していることに気づきます。Self Reference の問題です。
 白洲正子さんが、臨死体験で『弱法師』を舞って帰ってこられたのは、私との対談(『おとこ友達との対話』新潮社)ではじめて話されたのですが、白洲さんはそのころ最近の能のあり方に失望しておられた。それが極限状態で、再び能の『弱法師』の日想観の世界に戻ってきたのは、白洲さんの血の中に濃厚に能というものが刻印されていたからだとおもいます。「橋掛かりの途中で、『暗穴道の巷にも』と謡うところがあるでしょう。あそこのところがとってもくるしかったの」と言われたのを今でも思い出します。
 スーパーシステムは個体のような複雑なシステムを言いますが、それはもっと高次の文化現象や社会現象と常に照応している。だから意識が正常にもどってから、私の生命活動の原点にもどって、私の最も愛した能の世界とインターアクションしたといってもいいでしょう。実際、夢うつつで過ごした三日間の臨死状態は、まるで能を見ているように鮮明に思い出されます。(後略)
多田富雄

(ただ・とみお/免疫学)
(つるみ・かずこ/比較社会学)