2003年05月01日

『機』2003年5月号:脱近代へ 北沢方邦

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数多の近代批判論の限界を突破し、新たな社会構築の糸口を示す!

新保守主義者の誤算
 九・一一事件(いわゆる同時多発テロ)以後、世界は否応なしに確実に変わってしまった。
 一九九〇年代の好況と経済のグローバリゼーションを背景に、《自由》と《民主主義》と《自由主義経済》とが世界を制覇し、統合し、それによって各国や各種族の「歴史」は終焉にむかうという、フランシス・フクヤマ流の楽観論が一時期世界を制覇した。それは新保守主義のあたらしいイデオロギーとなり、これらの価値体系に反する国や否認する勢力は、武力をもちいても撃破し、世界を均質化し、アメリカ化すべきだという、新保守主義運動「ニュー・アメリカン・センチュリー」プロジェクトが立ちあげられた。ブッシュ政権の中枢を担うチェイニー、ラムズフェルド、ウォルフォウィッツ、ウィリアム・ボールトン、リチャード・パールなどが、このプロジェクトのメンバーであることはひろく知られている。イラク攻撃、あるいは次の北朝鮮攻撃(イラク攻撃が彼らの思惑どおりに成功した場合に限られるが)が、彼らの手で立案され、推進されていることはいうまでもない。
 だが彼らの蹉跌は、イラク戦争がむしろ戦後の混乱を拡大し、世界のいっそうの不安定化を招く点で、また世界の大多数がイラク攻撃に反対し、国内でさえも反戦運動がひろがったという状況によって、すでにはじまっている。蹉跌も当然である。なぜなら、九〇年代のいわばグローバリズムの黄金時代の観念とイデオロギーが、九・一一事件以後、途方もない時代錯誤と化していることに、彼らはまったく無知だからである。
 なにが変わったか。それは九・一一によってひとびとが、グローバリズムの欺瞞に気づき、この方向、いいかえれば超近代主義(ハイパーモダニズム)の方向には人類の未来がない、と認識しはじめたことを意味する。

脱近代の社会をめざして
 問題は、すでに九〇年代から反グローバリズムの運動がいわゆる先進諸国ではじまり、WTO(世界貿易機構)総会などに反対し、はげしい反対活動をおこなってきたにもかかわらず、また反グローバリズムにかかわるさまざまな理論的こころみが種々の立場から展開されてきたにもかかわらず、経済的・政治的グローバリゼーションの挫折のあとに、どのような世界が到来するか、あるいはすべきか、という点についての共通のヴィジョンや展望が存在しないことである。
 本書は、こうした反グローバリズムあるいは反イラク戦争に代表される世界の潜在的新潮流に、ひとつの共通の方向をあたえ、脱近代文明のおおよその姿を素描するための、ささやかなこころみである。まず前半で、近代文明がどこから道を誤ったのか、その知の体系の根源をさぐり、その知によって構築された社会、そしてその社会によってつくりあげられた人間像を解明する。後半は、その反省のうえに、脱近代の知が、社会が、また人間がどうあるべきかを探る。それは結局、父なる宇宙の法と母なる自然の恵みのなかで生きてきた、誤って未開とよばれる社会や古代社会を支配する知や文明の体系、つまり人類の王道に学び、それを現代のあたらしい科学的・技術的条件にどう適応させるか、に帰着する。むしろ最先端の科学の知が、それを告知しているといってよい。

(きたざわ・まさくに/構造人類学)