2011年09月01日

『機』2011年9月号:19世紀史 ――ナポレオンの世紀 ミシュレ『フランス史』VI・完結 立川孝一・大野一道

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日本語版全巻完結を迎えて
 本巻『フランス史VI 十九世紀』をもって本訳書全六巻のシリーズは完結する。ミシュレの原書『フランス史』一七巻、『十九世紀史』三巻のあわせて二〇巻に対し、およそ三分の一に相当する部分の訳出に過ぎなかったが、それにしても企画を立ててから足掛け六年、訳書第一巻の出版を始めてからでも一年半近く経ってしまった。その間、日本はかつてなかったような巨大地震と巨大津波に見舞われ、またそれに伴って起きた原子力発電所の大事故に今なお苦しむこととなった。この大事故は、はからずも歴史の中で繰り返され続けた、社会の中央部分が利益を享受し周辺部分が犠牲を強いられるという構図を、見事なまでに再現しているように見える。ミシュレはこのフランス史を書くにあたっても、各時代各領域で常時かいま見られたこうした構図を、執拗なまでに暴露し、そしてほぼつねに沈黙を強いられ続けてきた周辺部分のほうに、可能なかぎりの光をあてようと努力していたとも言える。


(大野一道・立川孝一)

ミシュレ『十九世紀史』とは
 『フランス史』の最終巻(第一七巻)は、革命前夜、三部会に選出されたミラボーの場面で終わっている。これによって『フランス史』は、すでに刊行されていた『フランス革命史』に接続されたことになる。だが『革命史』は実は完成品ではなく、ナポレオン三世の皇帝即位によってミシュレが公職から追放されたためにテルミドール九日で中断されていた。革命史の後半は手つかずのままであったし、何よりも、ナポレオンのことが書かれてはいなかったのである。
 『十九世紀史』は普仏戦争とパリ・コミューンという悲劇の直後、一八七二年に第一巻が刊行され、あとの二巻は著者の死後に出版された。文字通りミシュレの遺作である。歴史家としての知識が総動員されているだけでなく、未来にこめた熱い想いが行間から伝わってくる。従来は『フランス史』とは区別されて論じられてきた作品ではあるが、われわれはこれを『フランス史』と一体のものとして位置づけ、日本語版『フランス史』の第六巻として日本の読者に紹介しようと思う。
 だが副題の「ナポレオンの世紀」については説明が必要であろう。読者には、ナポレオンに対するミシュレの評価が厳しすぎると思われるかもしれない。たしかにナポレオンはミシュレにとって一種のアンチヒーロー、敵役である。では脇役かといえば決してそうではない。テルミドールからワーテルローまでの二〇年間、フランスもヨーロッパもこの一人の男を中心に動いていたのである。
 フランス人にとって、ナポレオンは「独裁者」であると同時に「英雄」でもあった。個人崇拝はフランス人の病いだとミシュレは言っている。ヨーロッパの諸国民にとっても、ナポレオンは「侵略者」であると同時に「解放者」でもあった。彼個人の意識はともかく、共和国と共に成長したフランス軍の兵士たちは市民たることを誇りとし、未だ封建制の支配下にあった周辺諸国に向かって革命の息吹を伝えたのである。だからミシュレにとって、ナポレオンは歴史のプリズムのような存在である。彼を通過することで歴史の諸相が明らかになってくる。『十九世紀史』は、ナポレオンと共に、ヨーロッパへ、世界へと拡大するフランス革命のグローバルな歴史なのである。
 死を前にしたミシュレは、戦禍に見舞われた祖国の再生を願い、まさに渾身の力をふりしぼって『十九世紀史』を書いたのである。

(立川孝一)

ミシュレとナポレオン
 ミシュレの父ジャン=フュルシが二〇歳になろうとしていた頃に革命が始まった。彼がパリにやってきたのは一七九二年十月のことである。彼はアシニャの印刷工場で働き始める。テルミドール後の印刷業は活況を呈していた。やがてジャン=フュルシは自前の印刷所を経営するようになる。「当初は何もかもうまく行くかに見えた」(青年期に書かれた『メモリアル』)。だが、総裁政府期(一七九五―九九)に繁栄した出版業はナポレオンによってブレーキをかけられる。共和八年ニヴォーズ(一七九九年十二月二八日)の法令が新聞の数を一六に制限する。さらに一八一〇年と一八一一年の法令がパリの印刷所を六〇に制限する。これによって零細な印刷所が閉鎖の憂き目を見ることになるが、ミシュレ家の印刷所もそこに含まれていた。一八一二年、ジャン=フュルシ・ミシュレは失業者となり、一八一五年まで定職につくことはない。
 ミシュレ研究の第一人者P・ヴィアラネは次のように言っている。「このように『絶えず踏みつけられたこと』が、ミシュレを同世代の作家たちから区別している。彼らが〔リセに通い〕ナポレオン崇拝の下で教育されたのとはちがって、貧困の中で育ったミシュレは、帝国の華々しい勝利には無感動なままであった。つまり、パリの民衆の無関心もしくは憎悪を共有していたのだ」。キネ、ヴィニー、ミュッセらの父が役人、ユゴーの父が将軍であったのに対して、ミシュレだけが貧乏人のせがれであった。
 ナポレオンに対するミシュレの「憎悪」は私的、個人的なものだったのだろうか? だが、歴史家としての半世紀の歩みの中で、ミシュレはその個人的な体験が根本においてパリの民衆のものであったことを確信したにちがいない。一八五四年に書かれ、死後(一八七九年)に出版された『宴』の中で、彼は帝政時代――彼の子供時代――の思い出を次のように記している。「皇帝はいつも、思いもかけないときに、足早に、夜暗いときに戻ってきてはパリを驚かしたが、くりかえされる戦争は年を追って大きくなった。そして祭りが行なわれ、食物が大盤振る舞いされ、ワインが泉のように流れ、花火が華やかに打ち上げられた。私は父と母に連れられて二度そこに行ったことがあるが、こうした花火がシャン=ゼリゼの夜空にくり広げる光、轟音、血の色をしたオーロラに驚き茫然とした。……人〔ナポレオン〕は、この戦争でめでたくも二万人あるいは三万人を殺したと言いたかったのかもしれないが、そんなことで喜ぶ者は一人もいなかった」「帝政は私にとって……ひとつのX、謎、疑問であった。なぜ人はこれほど戦争に熱中するのか?」
 この文章が書かれた頃(一八五四年)、フランスはナポレオンの甥(ナポレオン三世)の支配下にあった。皇帝への誓約を拒否したミシュレはコレージュ・ド・フランスの教授職のほか、すべての公職から追放されていた。ミシュレ父子は二代にわたってボナパルティスムの犠牲者になったわけである。

(立川孝一)

日本におけるナポレオン研究
 ナポレオンをフランス革命の継承者、その「収拾者」として評価した歴史家に井上幸治がいる(『ナポレオン』一九五七年)。だが『秩父事件』の著者でもあり、歴史を首尾一貫して民衆の側から見ていたこの歴史家は決して「ナポレオン伝説」にまどわされてはいない。歴史は一人の「天才」によって作り変えられるほど単純ではないのだ。「革命のつくりだした社会のしくみをはなれては、ナポレオンの政治も戦争もない。この点を無視すると、この英雄の人間の偉大さや非人間性も解明されないのではあるまいか」。井上は、ナポレオンの権力の社会的基盤がフランス革命によって解放されたブルジョワジーと農民であったこと、またこの軍事政権が農民たちによって構成される国民的軍隊を武器にして、その経済的ライヴァル(イギリス帝国)を封じ込めようとしたことを指摘する。ボナパルティスムとは、封建的秩序が革命によって解体し、社会がブルジョワ(産業主義)と労働者(社会主義)に二分されようとしているときに、その両方を軍事力によってつなぎとめようとする試みである。これはミシュレが『十九世紀史』第一巻序文「社会主義、軍国主義、産業主義」の中で述べていたこととも一致する。ただし、井上はミシュレのようにナポレオン個人の心理にまで深く立ち入ることは慎重に避け、老ゲーテのように、この人物における「道徳性の欠如と愛情に対する無感覚」をとくにとがめたりはしない。
 ミシュレは歴史家であるのか文学者であるのか?――編者である私も答えに窮することがある。ミシュレ本人に尋ねるなら、当然のことながら、歴史家であって文学者ではないと答えることだろう。なぜなら彼が描く人物も事件もみな確固とした地理的、社会的、歴史的な基礎の上に据えられているのだから、と。たしかに、「中世史」(一八三三―四四年)において歴史上の人物は――エティエンヌ・マルセルにせよ、シャルル六世(狂人王)にせよ――それぞれ時代の「象徴」として描かれていた。彼らの「個性」はより大きな集団――マルセルならパリの市民、シャルルであればフランス王国の人民――を視覚化するための象徴であった。その意味でジャンヌ・ダルクは最も典型的な象徴であった。彼女は「フランス」そのものを体現していたが、彼女自身は全く無知――あるいは無垢――な一七歳の少女、貧しい農民の娘にすぎなかったからである。つまり、没個性であることが象徴たることの条件なのである。
 だが、ナポレオン・ボナパルトは、どう見てもドンレミ村の少女のように純粋無垢であったとは言いがたい。ミシュレの描き出す青年ナポレオンは「青ざめた顔をした魔術師」であり、その「ガラスのような眼」からは何ものも読みとることができない。同時代のある詩人は彼を「偉大なるカメレオン」と呼んだりもした。ミシュレは言う。「この一見、雷のような、火山のような青年は、全体としては〈文句のつけようのない臣下〉と呼ばれるものであった。つまり若い時から全く原則にはこだわらず、とにかく機敏で柔軟性があり、どんな犠牲を払ってでも出世しようと決意した人物であったと私は思う。この年頃の男は、極めてわずかな年月で決してこれほどまでには変わらないものだ。……この変わりやすさが難解さを増す」(本書第八章)。こうした性格の不安定さのために、ナポレオンはついにミシュレの歴史においては「象徴」となることができなかった(「暗殺されたマラー」に対してミシュレが実に美しい一章を捧げていたことが思い起こされる。マラーがどんなに怪物的に見えたとしても、彼の『人民の友』はミシュレにとってはまぎれもなくパリの庶民の声だった。そしてあの冷酷なロベスピエールですら「ジャコバン教会」の中に熱烈な信者――上品なジャコバン女性たち――を持っていた。彼らもまた「象徴」であり、その死は「悲劇」なのである)。モスクワから退却し、パリで退位を余儀なくされ、エルバ島に流されるときのナポレオンの描写はほとんどカリカチュアだといってよい。それは道化=喜劇役者である。『革命史』のルイ十六世がそうであったように、滅ぶべきシステム(軍国主義)の象徴は道化でなくてはならなかった。
 我々は歴史家井上幸治のいましめに従い、歴史を「個人」に還元するのではなく、むしろ「革命のつくり出した社会のしくみ」に目を向けるべきであろう。『十九世紀史』において、ミシュレは見事なパノラマを我々に示してくれた。それは「国境」の外へ出てヨーロッパの諸民族と交流する革命の兵士たちの姿である。「大陸軍とは動員された人民である」(第一八章)。フランス革命はこれら無名の戦士たちと共に国境を越え、フランスの外のみならず、ヨーロッパの外へ、エジプト、インド、ハイチへと向かう。彼らはある所では快く迎え入れられ、またある所では厳しく拒絶される。共通の理念の下に「諸民族の連盟祭」が祝われることもあれば、血まみれの報復を招くこともあった。いずれにしても、「世界」がグローバル化し、価値の共有が課題となったことは明らかである。その意味で、ミシュレが『十九世紀史』第一巻の序文でかかげた世紀の基本性格「社会主義、軍国主義、産業主義」はあくまで暫定的なものにすぎないと言えるだろう。ボナパルティスム(軍国主義)は社会主義に対する産業主義の恐怖から生じたものであるから、労働者とブルジョワジーの和解が実現すれば自ずと消滅するべきものであった。積年の英仏対立ももはや過去のものであるとミシュレは言う。ミシュレは英雄ナポレオンを切り捨てることで、むしろヨーロッパ諸国民の連帯を選びとったのである。
 「意志」が世界を作る。「もろもろの意志と魂の共同体」こそ共和国と呼ばれるものである。たとえフランスが戦いに敗れたとしても、新たな共和国の中でフランスは甦ることだろう。「フランス史」は「世界史」になるのだ。これが、『十九世紀史』第三巻の序文でミシュレが同胞に残した最後のメッセージである。


(立川孝一)
*すべて『フランス史VI』より
(たちかわ・こういち/歴史学)
(おおの・かずみち/フランス文学)