2011年03月01日

『機』2011年3月号:革命家皇帝ヨーゼフ二世 倉田 稔

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日本での「ブーム」
 日本では一九八〇年ころからハプスブルク・ブームが起きた。
 だがこれは、単なるブームではなかった。というのもハプスブルク家は、最大の帝国家であり、ほとんど神聖ローマ帝国の皇帝でありつづけた、ヨーロッパでもっとも重要で由緒ある家系である。一時は世界帝国スペインもハプスブルク家であった。人がもしヨーロッパ史に関心を寄せるとすれば、注目されるのはいわば当たり前であった。
 しかし日本では、このころまではほとんどハプスブルクについての研究がなく、ヨーロッパ史といえば、イギリスやドイツ史が主であった。日本人の視野が広がり、ようやくハプスブルクについての関心が高まってきたのである。
 また、それだけではなく、ハプスブルク家の歴史自体が面白いのである。
 当時の日本では、ハプスブルク家といえばマリア・テレジア、マリー・アントワネットが知られていた。これらの人物はハプスブルクの歴史と関係なく、映画や小説などで個々の人物が散発的に扱われていた。しかし、始祖ルドルフ一世、ルドルフ四世、中興の祖マクシミリアン一世、大君主カール五世、ナポレオンと対決したフランツ二世、事実上最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世など、ハプスブルク家の人物は、ヨーロッパ史の重要局面で出現している。
 ハプスブルク帝国で活躍した、ハプスブルク家以外の人物は、ちょっとあげるだけでも驚異的である。モーツアルト、ベートーベン、フロイト、ヒトラーであり、ハイドン、メッテルニヒ、ヨハン・シュトラウスなど、枚挙に暇がない。

革命家皇帝ヨーゼフ二世
 だがハプスブルク家の中で、思想史あるいは政治史上、非常に興味深く、最も重要な皇帝は、ヨーゼフ二世である。彼は、ハプスブルク家待望の男子、マリア・テレジアの長男としておとぎ話の主人公のように生まれた。そして真の啓蒙主義者として大胆な改革をした。その改革の先進性たるや、十八世紀当時、ヨーゼフがハプスブルク帝国でもっとも革命的な人物であり、最大の思想家であったといえるほどである。
 一つ例を挙げると、寛容令、つまり信仰の自由の法令である。ヨーロッパではそれまでカトリックとプロテスタントが血で血を洗う闘争を繰り広げていた。カトリックはプロテスタントを殺してもよかったのだった。この闘いに終止符を打つものこそ、寛容令である。寛容令が出されなければ、ヨーロッパに近代は訪れなかった。
 また、農奴解放令により、中世の農奴が近代の農民になり、ハプスブルク帝国は政治経済的に近代になるのであった。隣国のフランスではそれをフランス革命(一七八九年に始まる、かの有名な革命)でなしとげた。つまりヨーゼフ二世は、フランス革命に匹敵する変革を一人で行なったのである。しかも、フランス革命は暴力で行われたが、ヨーゼフ二世は法令と理性で行った。
 ヨーゼフ二世の治世から六〇年を経て、ハプスブルク帝国では彼の提示した改革理念「ヨーゼフ主義」に基づいた国づくりが行なわれた。ヨーゼフ主義は近代ヨーロッパの基底を形成し、後の進歩派の思想となった。
 ヨーゼフ二世は人民に愛され、革命家皇帝、貧民皇帝、農民の神、哲学皇帝、啓蒙君主など多くの呼び名をもち、「スラヴィコヴィッツの畝」(ヨーゼフ二世が馬車を降りて畑を耕した話)ほか多くの逸話が残されている。お忍びで帝国各地を旅した彼は、さしずめ"水戸黄門"である。本書(『革命家皇帝ヨーゼフ二世』)はその一〇〇余りの逸話に、ヨーゼフとその時代についての解説を付した、日本で初めてのヨーゼフ二世の評伝である。

(おおの・かずみち/中央大学教授)