2006年11月01日

『機』2006年11月号:満鉄調査部とは何だったのか  小林英夫

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●伝説の組織の全貌がいま、ここに明かされる!


 日露戦争後の日本の大陸政策を考えるとき、満鉄の活動を無視することはできない。そして満鉄は、創立当初から調査活動を重視した会社として知られている。初代総裁後藤新平は、調査活動の重要性を強調し、創立当初から調査部をつくり運用したのである。満鉄調査部が成立したのは日露戦争後の一九〇七年四月のことであり、満鉄成立翌年のことであった。
 ではなぜかくも早期に設立されたのであろうか。多くの論者はその理由を後藤の個性に求める。たしかに後藤の調査好きはつとに知られた事実であり、後藤なくしては満鉄調査部の早期成立はなかった。しかし初代総裁後藤新平、二代中村是公がそのポストを退く過程で、調査部は急速にその影響力を低める。調査部が再び重視されるのはロシア革命以降のことである。その後は、満鉄調査部事件勃発によるその事実上の「解体」に至るまで、重要な位置を維持し続ける。
 したがって、後藤もさることながら、調査活動の必要性を認識せしめた最大の理由は、満鉄が置かれていた地理的・政治的な位置にあったというべきだろう。日露戦争の結果満鉄沿線は日本の領有圏に入ったとはいえ、中国東北はなお列強の争奪の対象地であった。調査・情報網を張り巡らし、国際情報をいち早く捕捉することなくしては満鉄の安定的運営は不可能だった。
 そして、ロシア革命とソ連の出現、中国本土でのナショナリズムの高揚は、ソ連調査、中国関内〔万里の長城以南〕のナショナリズム調査の重要性をクローズアップさせた。一時低迷していた満鉄調査部も、急速に調査部門を拡大・強化する。その後、満鉄調査部は、幾度も国策策定調査を担当し、その名を世界にとどろかせたのである。この種の調査活動は、一九四五年八月に日本が敗北し、ソ連軍の手で満鉄が解体されるまで継続した。
 一九二〇年代後半になると新たな課題がもち上がる。総裁となって田中義一立憲政友会内閣から満鉄に送り込まれた山本条太郎は、経営の刷新を図って事業に役立つ調査活動の活発化を提唱、推進する。東北軍閥・張作霖との交渉で新線の拡張が不可避となったことも調査の必要性を高めた。そして一九三一年九月の満洲事変の勃発とその後の満洲国の出現は、武力中心で国策(経済)立案能力に乏しい関東軍のためにその代替機能を調査部に課すこととなった。やがて日中戦争へと戦火が広がるなかで、満鉄調査部は軍の調査部としての役割を担って活動を展開し、日中戦争の拡大と軍の発言権増大のなか、次第に国策立案機関としての機能を強化し、規模を拡大していった。
 しかし、元来、軍や内閣直属の機関がなすべき調査課題を、株式会社の調査機関である満鉄調査部が行うこと自体に大きな限界が存していた。一九四二年九月に満鉄調査部事件が勃発しその後検挙者が増加するなかで、調査部は活動停止に追い込まれていくことになる。そして、敗戦と同時に満鉄は解体され、満鉄調査部もこれまた解散を余儀なくされる。
 成立以来一貫していることは、初期においては中国東北における国際政治の不安定性のゆえに、ロシア革命後は仮想敵国ソ連に接する国防第一線の地域ゆえに、調査活動が会社生存の第一条件となったことである。満洲国および満鉄は調査なくして生存を継続できない状況にあったというべきだろう。満鉄調査部はそうした宿命を帯びて生まれるべくして生まれてきたのである。後藤は、そうした状況を直感的によりよく認識していた人物の一人であったといえよう。
 本書では、一九〇七年から四五年まで四〇年間近くに及ぶ満鉄調査部と、その戦後の歩みを考察し、日本の国内政治との連繋を考慮しつつ、その実態に迫ってみることとしたい。

(こばやし・ひでお/早稲田大学教授)