信念のひと
もう、七年前となる秋、京都の賀茂川近くの岡部さんのお宅を訪ね、お話をうかがったことがある。
その折のインタヴューで、最も印象的だったのは、岡部さんの激しさといってもいいだろうか。
三十数キロという華奢で、今にも壊れそうな岡部さんの体の、どこにあんな熱情がこもっているのか。聞く側が、たじたじとなるほどの激しさだった。
「私は加害の女です」
岡部さんは、ご自身のことを、そうおっしゃった。
沖縄戦で亡くなった婚約者。彼を戦場に赴かせ、死に至らせた責任の一端は自分にもある。喜んで死ぬのが当然と考え、大切な人を戦争で死なせてしまったのだから、私は加害の女です。このように語る岡部さんの言葉に驚いた。
「銃後の女性」といった戦時下の女性の立場を表現する言葉は知っていたが、「加害の女」なる言葉は初めてだった。
今を生きる若い人たちに自分と同じ思いをさせてはならない。
そのことを言いたいために、私は私を貫き続けている。そのことを伝えるために私はある。そう語る岡部さんは、うんと大きく強く見えた。
話題が変わると、まるで童女のような岡部さんだが、そのときだけは違っていた。まさに信念のひと、の印象だった。
大伯皇女に寄せる思い
だからだろう。
「やまとの女人」の中のに寄せる岡部さんの思いは、切々たるものがある。
わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて暁露にわが立ち濡れし
二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ
『万葉集』中に残る大伯皇女の歌。
伊勢の斎宮として仕えていた皇女に、謀反の罪を負って、死を覚悟した大津皇子が最後の別れのために会いに行き、皇女が彼を見送りながら詠んだのが、この二首である。
(死が待ち受けていることを知りながら、大和へと帰っていくあなた。私は露に濡れながら、あなたを見送り、ただ立ちつくしていたのです。)
大伯皇女の姿に恋人を見送った岡部さんの姿が重なる。
時代も違うし、立場も違う。けれど、一人の人間の生を、はるかに越えて、国や政治といった測り知れない大きな波の中で、やむなく死んでいかなければならない個の哀しみ。
それは、一千年以上のときを越えても変ることのない人間の営みの哀しさでもある。
筆一本で生きる
岡部さんとお会いして、話をうかがった際、もう一点、心に残ったのは、京都在住の多くの知識人、教養人といった男性たちが、社会の差別には敏感なのに、女性差別には殆ど、気が付いておられない。そう嘆いていらしたことだが、女性の独り身で、筆一本で生きて来られた岡部さんだからこそ、そのことを敏感に感じる機会が多かっただろうと想像する。
なんということだ。美しき女人を仏像彫刻のモデルとするほどに尊び、また、いかなるすぐれた男子も、女人の胎を通って出生するのが現実なのに、その神聖にして神秘なる女人が、成仏できないなんて、まったく筋が通らない。
これは、安楽寺の項で、女人は五障三従の身。みずから主となって生きてはゆけず、仏身をうけることができない。とされることについての岡部さんの思いだが、ここにも、驚くほど熱く、自らの信念を披露する岡部さんがいる。
「女人の京」、はんなりとしたタイトルの中に収められた、女性ならではの怒り、哀しみ、そして、喜び、幸せ。岡部さんの探求心がどこに向いているのか。読むほどに、その深さと重さを考えさせられる著作である。
(みちうら・もとこ/歌人)
※全文は『女人の京』に収録(構成・編集部)