2005年01月01日

『機』2005年1月号:情報以前――「聞く」ことの倫理 竹内敏晴

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なまみの話し手の疎外
 だいぶ以前のことだが、ある大学で話をした。三百人位入る階段状に席の並ぶ中講堂といったところ。演壇には当然のようにマイクロフォンがおかれている。わたしは「こんにちは」と言って話し始めた。
 今日はマイクの助けをかりるのだから、遠くの窓際の人まで声を届かせようとする努力はいらない。自分の考え――というより、からだの内にうごめいているものをなんとかことばにして、ぽつぽつ話してゆけばいい、そう思っていた。
 ところが奇妙にエコーが大きい。なにか息苦しい気がしてふと気がつくと聞き手の姿がしんと遠く見える。透明な幕の向うに退いたようで、わたしと全く別の世界にいる。
 慌てた。目の前の若い人に、ついで少し遠くの人に、呼びかけるように話してみた。と、スピーカーのエコーが、ウォーンと響いて返ってくる。わたしの声が零点なん秒かの差でわたしに寄せてくる。わたしが力をこめて話しかけるほど、声はわたしに戻ってきて、わたしを包みこんでくる。わたしは話せば話すほど、どんどん自分の声のエコーの幕に閉じこめられて、話しかけようにもその向うに出てゆくことができない、わたしは息が詰まってきて、喘いだ。身動きができない。
 わたしは机につかまって唾を飲んで、まっすぐ立った。水を飲んだ。「こうやって話していると、自分の声のエコーに閉じこめられて息ができなくなりそうです。とてもあなた方と話している気がしない。マイクを切らせていただきます」。ぷつんとスイッチを切った。
 シィンとした。場内は水が澄んだように、静かさが充ちた。聴き手は不思議そうな顔を上げる。
 わたしはやっと息を一つして、「この声で聞こえますか?」と声を発した――とたんに全員の注意がサァーッと、音を立てたように、わたしに集中した。満場の人がまさに「聴き耳を立てた」。この一瞬は忘れがたい。
 わたしは生き返ったようになって腹の底から息を吐いた。窓際から若い女の人が手を上げるのが見え、あちこちから「ハーイ」「聞こえます」と声が返ってきた。わたしはそこまで声が届くように、あちこちの人に次々に話しかけるようにして語り出したが、すぐ、声を張る必要は全くないことに気づいた。聞き手の方が身を乗り出して聞き取ってくれるのだから――。笑い声が起り、時に手が上がって「もう少し声を大きく」と註文がついたりしながら、わたしは話しつづけた。
 近頃はせいぜい五十人位の会合でもマイクが用意される。甚しい例では、ある島へ渡った時、谷あいの小さな幼稚園で十数人の子どもを行進させるのに、中年の保母さんがマイクを握ってガンガン怒鳴っているのに出くわして唖然としたことがある。二、三歩踏み出せば手が届くところにいる子どもに対して、である。スピーカーの音は谷じゅうに轟いていた。

「聞く」ということ
 聞き手にとって、マイクで話されることばを聞くとはどういうことだろうか。
 まず第一に、聞き手は直接話し手の声を聞いているのではない、ということだ。耳は会場内のどこかに設備されている複数のスピーカーから響いてくる器械音をとらえる。この音は方向性を持たない、空間に拡散する音の一部であって、それから聞き手は語音を聞き取り文を構成する。いわば音の文章を読むのである。だから話し手当人を見る必要もなく、目は別の文献を眺めていたりする。なまみの話し手は全く疎外されているのだ。
 元来人の話を「聞く」とはどういうことだろう?
 「わたし」が「あなた」に話しかける。
 聞き手はわたしを振り向き、わたしを見つめ、わたしの息づかい、わたしの、ことばを探して立ち止まったり、宙を見つめたり、もどかしく手を振ったりする身動き全体に、自分に差し出されようとしている「こと」を受け取る。
 「聞く」とは、話しかける人を、姿と声の全体で受け取ることだ。これが、ふれ合う、交流する、コミュニケートする、ことだろう。聞く、とは、話されたことばの文章内容だけを抽き出して取り込むことではない。いわゆる情報の伝達とは全く違う出来事なのだ。

「話す」ということ
 「話し手から言えば」――話しことばとは、からだの内に未定形な混沌としたものの動きがあり、浮び上るイメージやことばの断片が他の断片と突然結びついて一つの文言を作る。だがそれはたちまちに消え、新しい文言が結ばれる、その点滅の中から一つのゲシュタルトが立ち現れ、把えられた「ことば」たちが時間の流れに沿って単旋律に並べかえられると、文章に形成され、そこでやっと声に発せられる。
 しかし、こうして繰り出されてゆくことばの志向するところ、つまり内容は浮び上って来ても、相手へ差し出す勢は、おずおずしたり強く押し出したり、つかまえてゆすぶりたいほど荒々しくなったりもして、確実に相手に届くとは限らない。ことばを話しかけるとは相手のからだにおいて成り立つ営みなのだ。
 ことばを話す、とは、その過程=現象全体であって、つまりは人が人とふれ、相手を動かし変えようとする全身心の試みなのだ。それ故「話しことば」とは、じかで、ただ一回きりの、文内容を超えたなにか、であり、からだからからだへ響きあい、共鳴し反撥することだ。
 対比して言えば情報とは、上に述べたような人と人との関係の微妙さを捨象して、明確に言語=文章化し抽象化した意味内容のみを伝達する機能ということになるだろう。情報は受け手を特定しない、交換性を持つ。
 わたしはいわゆる「講演」の時に、ことばで聞き手とつながるだけでは満足し切れなくなって、一ぺん大きく息を入れてみませんか、と聞き手によびかけて、歌ったりレッスンしたりして、そこから思考を進めてゆくことがあるが、これも一方から話しかけ、他方は黙ってうけたまわる、という一方的交流の閉鎖性抽象性に対する、いやむしろ「わたし」を疎外して「情報」のみを抽出しようとする情報化社会の構造的動向に対する「からだの反乱」であるのかも知れない。

(たけうち・としはる/演出家)
※全文は『環』20号に掲載(構成・編集部)