2004年05月01日

『機』2004年5月号:新しい赦しの国 多田富雄

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国際的免疫学者、多田富雄による初の詩集、刊行!

詩は向こうからやってくる 多田富雄
音のない詩の訪れ
 詩は向こうからやってくる。突然予感が言葉になって立ち上がり、こちらに向かってくる。こちらから近づくことはできない。条件さえ良ければ、突然優しい発作のように詩に満たされる。時にそれは胸苦しいほど圧が高い。
 青年時代は、それが来るのを待っていればよかった。友人と同人誌を作っては潰ししながら減圧したものである。
 実生活に耽る日々が続くようになってからは、その来訪はまれになり圧も高くはなくなった。しかし、来ないわけでもなかった。アメリカで研究生活を送っていたときでさえも、時々は遠慮がちにやってきた。たまには紙切れに書き留めておくが、多くはそのまま逃げ去ってしまった。
 それが再び頻繁に現れるようになったのは、2001年の5月、旅先で脳梗塞の発作を起し、重い障害を負った夜以来である。突然金縛りにあったように体が動かなくなり、三日あまり死線をさまよった。目覚めたときは右半身が麻痺し、驚いたことに私は声を失っていた。叫んでも声は出ず、訴えようとしても言葉にならない恐怖。意識さえもはっきりしない中で、私の叫びは詩になっていた。
 体が麻痺していたので、書きとめることもできない。夢うつつのうち、必死でいくつか暗記して帰って来た。何日も経って、片手でワープロの文字を打つことができるようになったが、大方は忘れてしまった。でも、詩が向こうから現れたことは確かだ。
 それ以来時々微熱のように、詩が訪れるようになった。若い頃のように圧力は高くなかったが、知らず知らずのうちに口ずさんでいた。私の構音障害は重症で、三年たった今でも言葉は一切しゃべれない。だが音のない詩は優しく訪れた。
 以前と違って、さまざまの風景に出会うことがないので、現れる場所は限られている。劇場や能楽堂で、特に演技に圧倒されたときなど、詩は向こうからためらいがちに近づいてきた。そんな時は覚えておいて、家に帰ったらすぐにワープロに向かう。言葉は逃げやすいから、長く手元には留まらない。行ってしまうと復元できない。
 脳梗塞の経験は、私に何か不思議な能力を与えたような気がする。昔分からなかったことが、発作を境に理解できるようになった。時には未来や過去のことまで感じとることができる。脳の一部は死んで戻らないが、その代わり何か新しい回路が生まれたようだ。この詩集は、発作直後から最近までの詩を中心に編んだ。ついでに手元にあった古い雑誌や、書きなぐりの草稿にも多少の手を入れて、私の全詩集ということにした。

詩魂の遍歴
 思えば長いこと詩のようなものを書いてきたものである。18歳の頃、郷里の先輩でもあった新川和江さんに勧められて、詩誌『PLEIADE』に初めて詩を発表した。昭和24、5年ごろのことである。その頃書いた富永太郎もどきの抒情詩も、恥ずかしいが記念に収めた。新川さんは、同郷というだけで、傲慢な田舎者の高校生にも、詩を書く楽しさと苦しさを教えてくれた。
 医学部に入ってから、安藤元雄や江藤淳たちと同人誌『PURETE』(のち『位置』に改題)に参加した。田舎からやってきた、体だけ頑健な理系の学生は、安藤元雄の詩の熟れたチーズの一片のような存在感や、江藤淳の何もかも見通した批評眼の明晰さに、ただただ嫉妬し、いくら背伸びしても打ちひしがれるばかりだった。でもその頃、権威のあった『詩学』という雑誌の批評欄で、江藤淳の処女評論「マンスフィールド覚書」と一緒に褒められて、有頂天になったのを覚えている。江藤はそのことによって批評家の道を選んだが、私は吹っ切ることができず医学にも二股かけていた。手塚久子や赤荻賢司、永井俊作など、より巧みな工人、詩人たちは、皆他界してしまった。
 やがて『メタフィジック詩』という同人誌を発刊し、私が編集することになった。私は医学生だったが、医学の勉強より、詩を書いたり、能楽堂に入り浸ったりの日が続いた。その頃書いた詩はあまり残っていないが、『メタフィジック詩』に発表したものだけ、気恥ずかしいが収録した。よくもこんな韜晦な詩を書いたものである。またそのころの絶望のなんと深かったことか。青春というのは、いつの世でも苦いものだ。エズラ・パウンドやT・S・エリオットを読むことで、気力を養っていたような気がする。
 30歳を過ぎた頃から、私は免疫学の研究者として海外に住む期間が長くなった。本業の研究に忙殺されていたので、詩が近づいてきても本気で相手にすることはまれになった。科学の研究は、詩と同様想像力を必要としたし、何よりも私は研究が好きだった。私は仕事に熱中し、もう詩には振り向きもしなかった。たまに書いてもすぐに忘れた。40代、50代を通じて、それは続いた。私は科学者という職業を愛していた。紙くずの中から、妻が拾っておいてくれたのが、かろうじて生き残っただけだ。意匠はさまざまだが、紛れもない私の詩であることに驚く。
 いまさら世に問うというつもりはないが、もう長くもない私の生涯の本棚に、一冊だけ詩集というものを飾りたいと願っただけである。

(ただ・とみお/免疫学)