2003年03月01日

『機』2003年3月号:食物の海に溺れて──『パリの胃袋』 朝比奈弘治

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香りと色と音と……
 世の中に食べ物文学の数は多いが、ゾラの『パリの胃袋』ほど、さまざまな食物がこれでもかとばかり次々に描かれてゆく小説はめったにないだろう。
 野菜、果物、肉、魚、チーズ、菓子、加工食品と、出てくる食べ物の種類の多さにも驚くが、とにかくすさまじいのはその量だ。なにしろ舞台はパリの中央市場。フランス第二帝政の首都の威信をかけて、鉄とガラスの超モダン建築として作られたばかりの巨大市場のなかに、ありとあらゆる食料品が集まってくる。さしもの大建築もはちきれんばかりで、食料は洪水のように外の道にまであふれ、人や車でごったがえすなかに、競りの叫び、取引や喧嘩の声、運搬や陳列の喧騒から馬のいななきにいたるまで、雑多な音や声がにぎやかに響きわたる。ここに描かれているものは、ラブレーの作品を思わせるような、一九世紀パリ庶民のカーニバル的な祝祭の世界だ。
 だが食べ物を描きだすゾラの筆は、ルネサンス期の作家よりも近代の画家たちの絵筆に似ている。朝日に輝いて燃え上がる色とりどりの野菜の山、窓の光線を受けて虹色にきらめく真珠光沢の魚や貝。血なまぐさい臓物市場の牛の肺でさえ「絹のような柔らかさ」で「踊り子の裳裾のように」きらめいている。変化する光と色彩のなかで食べ物を描きだすゾラの技法には、早くから印象派を評価し、マネを擁護した戦闘的な美術批評家の面目躍如たるものがある。
 いや、視覚だけではない。山積みの野菜は緑の音楽を奏で、果物は女の唇と化して接吻をふりまき、そしてついには悪臭・腐臭さまざまな各種チーズが「匂いの交響曲」を演奏しはじめる。ここに見られるものは、ボードレールが「香りと色と音とがたがいに応え合う」とうたったような「共感覚」の世界だ。


日東興業をめぐる紛争
 ゴルフ場業者の最大手の一つ、日東興業をめぐる紛争は、会員と倒産企業の対立、会員側の弁護士と企業側の弁護士の考え方の相異、ハゲタカのように腐肉をあさっている外資系ファンドの思惑などを如実に示していて、興味深い。日東興業の債権者説明会の一部始終を録音をもとに再現しました。
 和議派として日東興業と妥協した会員代表が、債権者説明会で会社側を「約束を守らない」と糾弾します。その一ヶ月後、日東興業を追われた元副社長らと会食して悲憤慷慨。翌日、韓国に旅立ち、帰宅後に突然死んでしまいます。“憤死”という印象です。
 大蔵省(現・財務省)の検査官たちを飲食とゴルフで接待づけにした銀行。ノーパンシャブシャブで接待された直後の検査では、銀行の言いなりです。こうして不良債権額は低目低目に粉飾されました。業と官の癒着の一例です。摘発されたのはトカゲのしっぽ。この種の汚職は「上へ習え」なのに、トカゲ本体の事務次官は形ばかりの注意処分だけで、政府系金融機関の日本政策投資銀行に天下っています。

巨大な食物の悪夢
 だがゾラといえば、卑近な日常生活をありのままに描く「自然主義」の作家ではなかったか。そう、たしかにこの小説でも、語られているできごとといえば、市場の女たちの駆け引きや小競り合い、下品なゴシップや遺産をめぐるせせこましい争いといったものだ。そうした卑俗な人間ドラマのなかに、ゾラは平然として食物のシンフォニーや現代絵画を取り込んでしまう。このアンバランスな取り合わせの効果が面白い。
 アンバランスといえばもうひとつ、視覚、聴覚、嗅覚といったものは総動員されているのに、肝心の味覚についてだけはほとんど言及がない。それもそのはず、実はこの「食べ物小説」、飢えと吐き気の物語でもあるのだ。主人公は美食にはまったく無関心な小食の痩せっぽちで、無実の罪で流された南米ギアナで飢餓に苦しみ抜いたあげく脱出してきた男。それが皮肉にも中央市場の検査官という仕事につき、毎日毎日、食料の山に埋もれて、たえまない吐き気に悩まされている。その違和感が、この小説の大きなテーマだ。食をめぐる人々の意識の違いは、やがて「太っちょと痩せっぽちの戦い」へと発展し、ついには不満分子が結集して帝政転覆の陰謀が企てられるにいたる。
 食べ物の恨みはまことに恐ろしい、ということになりそうだが、ではこの作品、飽食と飢餓とが相対峙する政治小説として読むべきなのだろうか。そうかもしれない。しかしゾラの目はさらに遠くを見据えているようだ。一時代の社会状況を越えて彼が描こうとしたものはおそらく、生きるためには食べなければならないという、人間、いや生命あるものすべてが負わされた永遠の業のようなものではないかと思われてくる。

(あさひな・こうじ/明治学院大学教授)