2012年01月01日

『機』2012年1月号:エネルギーとは何か  I・イリイチ

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エネルギーとクライシス
 燃料は、一〇年前に劣らず今もふんだんにあるのに、「エネルギー」は不足して〔稀少になって―以下、補注〕しまっています。「エネルギー」という言葉を聞くと、決まって「危機」が思い浮かぶほどなのです。もっとも、英語の「危機」の語源のギリシア語クリシスは、〔客観的な危機ではなく〕「選択」という意味なのです。
 この間、経済は金本位制からワット本位制へと移行してしまい、今やビット〔binary digit の略語、「二進法的数字」の意、コンピュータの情報量の単位〕本位制にこっそりと動いているさなかなのです。ビットは、そのうち極めつきの資本〔元手〕Kapital になろうとしているのです。チップ〔半導体の集積回路をプリントしたシリコンの小片〕が、何億もの二進法による選択=危機によって、新たな稀少性の水準を編成しようとしているのです。経済人は、二進法人間homo binarius〔マニュアル人間〕に突然変異しようとしているのです。
 我々の社会に定着してきたベクトルを転換しかねないこの唯一の我々の選択こそ、プログラム化などできないような危機だ、というのが私の主張なのです。こうした選択=危機は、どんなコンピュータもシミュレートできないのです。女も男も各人が自分のために作り出さざるをえない選択=危機なのです。我々の経済を煽り立てる稀少な物品は爆発的にあふれかえり、そのために各人には稀少な物品に依存しないで、かえって入念な選択によって〔コンセントから〕プラグを抜く余地ができるのです。たしかに誰でも何らかの経済的役割を「果たす function」ことを止めることはできません。しかし、ほとんどの人は、そうした役割を決定する稀少性の体制をはみ出し、何らかの仕方で「生きる live」ことができます。私が口にしているプラグを引き抜く選択は、その物品を遠ざけることとは正反対で、パッケージ化されたエネルギーと情報との洪水のただ中で、有意義な生活を自覚的に取り戻すことなのです。


現代社会に浸透する稀少性の前提
 道義にかなった共同体が、経済の前提と真っ向から対立して、立場を定めようとしているのです。ほとんどの人は経済の前提と共同体との両方にまたがって立っています。人によって一方より他方へより踏み込んでいるということはあります。たいていの人には、いつか、エレベーターなしで、ジャンクフードなしで、ニュース報道なしで済まそうとしたことがあるものです。プラグを引き抜く人たちからなるこの道義にかなった共同体は、アウグスティヌスの神の国よりずっとつつましいものです。しかし、この共同体への回心も、やはり「世の習い」を絶つことを意味しているのです。その今日的意味は、我々の道義的な活動が経済の前提によって支配されるがままになることの拒絶なのです。この拒絶――どれほどかすかなものであれ――だけが、左翼はもちろん右翼をも下支えしている生産性を信ずる市民の信仰心に、プラグを引き抜く人々を対立させているのです。
 経済の前提が、我々が知覚し活動する際に用いる言葉や概念に根深く染み込んでいるので、プラグを引き抜くとは何かということを統一的に把握することが困難になっています。二十世紀の人々の社会的行動を説得力をもって解釈するキイワードはどれもこれも、稀少性の前提を受肉しているのです。決断を二進法的選択に矮小化し、役に立つ物goods を商品にしてしまうような世界観。環境を、共有された慣習の総体から、権利請求の対象としての一群の資源へと貶め、男と女とを「人類」に無差別化してしまうような世界観。そういう世界観を担っているのが、これらのキイワードなのです。
 これらの用語は科学から取り出されたもので、人々の道徳的・政治的・社会的行動の領域から取り出されたものではないという神話を生み出すことによって、経済人の物の見方を自然らしく見せているのです。「エネルギー」もそうした用語の一つなのです。後で論ずるのですが、物理学の「仕事」の概念が、仕事をする機械として、自然を解釈するために用いられたように、エネルギーも、人間と社会とを仕事をする機械として解釈します。エネルギーの政治的側面が隠蔽され、エネルギーという用語が自然の同義語にまで成り上がるまさにそのことによって、この言葉が社会のなかでどれほど強力な説得力を発揮することになったかを私は分析します。 (後略 構成・編集部)


鈴木一策訳
(Ivan Illich /歴史家・詩人)