2011年06月01日

『機』2011年6月号:ジャポニズムのロシア V・モロジャコフ

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ロシアと日本――遠いか近いか?
 地理的に見れば、ロシアは日本の最も近い隣国である。しかし、日本人の大部分は、ロシアを基本的に「遠い・寒い・暗い・危ない」国と見ているのではないか。他方、ロシア人の大部分は、日本を「寒い・暗い・危ない」とは見ていないが、かなり「遠い」とは考えている。なぜだろうか?
 私は、それには多くの理由があると思う。文化・文明としては、日本はアジアの一部であり、ロシアはヨーロッパの一部である。というのは、モスクワとサンクト・ペテルブルグをはじめとする西洋ロシアから見れば、日本という国はかなり離れているからだ。逆に東京あるいは京都から見ても、モスクワとサンクト・ペテルブルグは遠く、飛行機の直行便でも一〇時間ぐらいかかる。やはり、文化と地理の間には差異があるのだ。
 モスクワと東京とが離れているにもかかわらず、ロシアと日本は隣国である。日本の「裏日本」と「表日本」と同じように、ロシアにも西洋ロシアと東洋ロシア、また太平洋ロシアがある。この両者が共存している地域では、ロシアと日本、ロシア人と日本人との関係の長い歴史がある。そして、日露関係史というテーマは、興味深く意味深いものだと私は確信している。
 ある人は、日露関係の状態が悪いのは「ノーマル」なことだと論じている。私は賛成できない。現在、多数の理由で、日露関係が悪いといえないが、あまり良くないことは認める。しかし、この状態はいかなる意味でも「ノーマル」ではなく、「アブノーマル」である。相互理解が足りないことは、相互理解が絶対できないこととは異なる。日本とロシアの間には、相互理解が可能であることを証明する歴史経験がたくさんあるのだから。
 日本近現代史と国際関係史を長い間研究している私は、日露関係史を専攻し、このテーマについてロシア語で単行本六冊を出し、さらに二冊が今準備中である。私は、政治、経済、貿易、軍事に限らず、文化、文学、美術、宗教などの分野で日本とロシアの相互理解、協力、友好の歴史を具体的に調査して、それを読者にできるだけわかりやすく紹介している。このような著作は、日本でもロシアでもまだ充分ではないと考えている。
 日露友好関係というテーマは、私にとって学問的な研究課題であるだけでなく、個人的関心でもあり、ある程度は使命感をもって取り組んでいることでもある。

筆者の経歴
 私が一九六八(昭和四十三)年に生まれたモスクワは、地理的には日本から遠いが、私にとっては生まれた時から日本は非常に近かったといえる。母のエリゲーナ・モロジャコワは、当時ロシア科学アカデミー研究所日本研究科の博士課程大学院生(ロシアの大学院は、大学だけではなく科学アカデミーの研究所でもある)だったので、私は子供の時から「日本」と「論文」という言葉をほとんど毎日聞いた。博士号をもらったあと母は、同研究所の研究員、主任研究員、日本研究センター長を経て、二〇〇九年には副所長になって、ロシアで最も権威のある日本通の一人として知られている。
 子供の時から日本についてさまざまなことを耳にしたにもかかわらず、私は日本研究を自分の専攻、仕事として選ぶことはほとんど考えていなかった。ロシア文学と美術、特に二十世紀初めの「銀の世代」を好んでいたので、私はモスクワ大学文学部か歴史学部美術史学科に入学しようかと考えていた。しかし、高校の時、自分の道を選ぶつもりで母の勧めを聞いたのがきっかけで、私はモスクワ国立大学付属アジア・アフリカ諸国大学の日本語学科に入学した。
 たいへん難しい日本語と、たいへん興味深い日本の歴史・文化の勉強をはじめたが、私はもちろんロシアの「銀の世代」文化も忘れず、その研究も続けていた。逆に、ロシア文学のもっと深い理解および研究のために、日本に関する知識が必要であることを私は理解した。
 たとえば、ロシア象徴派の代表的な詩人・作家アンドレイ・ベールィの最も有名な小説『ペテルブルグ』(邦訳は川端香男里訳、講談社文芸文庫)は、日露戦争直後の第一次ロシア革命を描いたもので、この小説では日本に関係するさまざまなテーマが特に重要である。しかし、文学作品として『ペテルブルグ』を分析したロシアの文学専門家は、日本関係の知識が不足していたので、その主題を明快に説明することができなかった。同様に、日露関係の専門家や日露戦争の研究者は、ベールィの小説を読んでも、それを大事な史料と認めることができなかった。
 大学生の時に私は、「銀の世代」のロシア文化・文学の研究と日本近現代史の研究を結びつけたいという希望がどんどん強くなったので、十九世紀末~二十世紀初めのロシアにおける日本のイメージ、「ジャポニズム」と呼ばれている日本趣味をもっと具体的に勉強しはじめた。当時のロシア知識人、インテリ、詩人、思想家、作家、画家は日本と日本人をどう見たのか? 何を考えたのか? その情報源は何だったのか? その結果、日本と日本人をどういう風に描いたのか?
 幕末から第一次世界大戦末にいたる「ヨーロッパとロシアにおける日本のイメージ」は、私の博士論文(モスクワ大学、一九九六年)のテーマになった。同年、この論文は単行本としてロシア語で刊行された。その一部分を書き直したものが、本書(『ジャポニズムのロシア 最も近い隣国の「真の姿」』)の第I部である。

文化は民族同士の理解の架け橋
 文学、思想、美術、音楽などを含めた広い意味の「文化」は、文明と文明、民族と民族の間で、最もすぐれた、最も強力な架け橋になるのではないか。国際関係で対立して、経済・貿易で競争している国々でも、文化の分野では協力することができる。国と国、少なくとも民族と民族の相互理解への道を考えると、文化の道が一番近いのではないか。
 その意味で私は、拓殖大学日本文化研究所の主任研究員、のち客員教授として、後藤新平を中心とする日露関係史の研究を続けると共に、研究所の機関誌『新日本学』のために日本とロシアについてのエッセイ数本を執筆した。
 ロシアは「生きている仏教の国」であることをご存じか? なぜロシア人は、アメリカ人や中国人と違って、神道に対する敵意を感じず、強い関心をもっているのか? ソ連の崩壊の結果としてイデオロギーの弾圧から自由になったロシアでは、日本観と日本研究はどのように変わったのか? また日本人は、なぜ十九世紀のロシア文学を好むのか? なぜニコライ・ベルジャーエフの思想は日本人の心と魂に接近したのか?
 こうした問題を検討し、推論している論文とエッセイが、本書の第II部になった。私は日本語で執筆したが、きれいな表現と適当な語彙がまだ不足しているので、『新日本学』の編集者が私の拙い和文をうまく書き直して編集してくれたのである。

新しい日露関係へ
 我々は今、二十一世紀にいる。しかし、日露関係、特に政治と国際関係の分野では、冷戦の影響がまだかなり強いのではないか。ロシアはソ連時代の共産主義的イデオロギーとその弾圧から自由になったにもかかわらず、日本ではソビエトの幻が残っている。二十世紀が終わってしまった今、その肯定的な経験を保ちつつ、過去の否定的な影響を取り除く時代が来たと私は確信している。時代が変わって、我々が変わって、ともに世界を、少なくとも日露関係を変えていこうではないか。
 広大なロシアには、寒い地方もあれば、暑い地方もある。暗いことも存在するが、明るいことも少なくない。危険なところばかりでなく、安全なところも多い。そして、日本人が知っている「遠い・寒い・暗い・危ない」ロシアは、基本的に事実ではなく、イメージだけのものである。そのイメージは正しくなく、本当のロシアとずいぶん異なっている。日本人の読者が本書を読んだことで、ロシアと日露関係に関する知識と理解を少しでも深めていただければ、私の望みはかなったといえる。

(構成 編集部)
(Vassili Molodiakov /拓殖大学日本文化研究所)
(村野克明・訳)