2011年06月01日

『機』2011年6月号:福島原発事故の本質を問う 井野博満

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今、ここで起こっている悲劇
 怖れていたことが起こった。遠い国の、過去のことだと思っていた原子力発電所の事故が、この国で現に起こってしまった。広島と長崎の原爆による悲劇、南太平洋での水爆実験による被曝に続いて、この国で起こった核による悲惨な現実が目の前にある。
 福島原発事故。実り豊かな大地と海は、放射能という目に見えない毒によって汚染された。周辺の人びとは強制避難させられ、無人の町と村、農地と牧草地と森が残った。共に住んでいた動物たちは放棄され、牛乳は捨てられ、準備されていた苗は植えられなかった。森のきのこや山菜は毒をあびた。海に流れ出た放射能は、海流に乗って沿岸に拡がり一月も経たぬ内に魚の汚染となってあらわれた。こうなご漁の盛期を迎えていた海は禁漁になった。
 放射能汚染は隣接する関東各県や宮城県にも及んだ。各県で野菜や牛乳が出荷停止になり、東京の水道水で規制値を超える放射能が検出され、宮城県の牧草や三〇〇kmも離れた神奈川県西部の茶畑も汚染された。放射能は世界の大気と海を汚染し、遠くアメリカやヨーロッパでも検出された。
 福島原発事故の本質は何なのか。核エネルギーという、制御困難なエネルギーを使いこなせると過信して、原子力発電をこの地震列島に導入し、次々と建設していったことがそもそもの誤りだったろう。加えて、原子力発電の利権にむらがった人たちが安全性を軽視し、地元住民からの反対や事故を懸念する人びとからの度重なる警告を無視し、当然とられるべき対策を放置してきたこと。それが直接の原因である。

津波さえ防げば安全?
 想定外でもなんでもない。「反原発」といわれてきた人たちが三〇年間、危ないと言い続けてきたことだ。事故の進展プロセスもおよそ予測どおりである。冷却水喪失、炉心溶融、格納容器の機能不全、水素爆発、放射能の大量放出……。
 こういう事故は起こらないと主張してきた原子力発電推進の人たち――電力会社、メーカー、原子力安全・保安院、原子力安全委員会、それらに協力してきた学者たち――は、津波の大きさが「想定外」だったという。その上で、津波さえ防げば原発は安全だとばかりに、高い堤防を築いたり、設備・機器を高台に移したりという対策が語られている。だが、より根本的には、地震対策が不十分だったのである。
 二〇〇七年七月の中越沖地震によって柏崎刈羽原発七基が被災した。敷地はずたずたになり、燃料タンクの火災も発生したが、幸運にも大事故には至らなかった。マグニチュード六・八という直下型の比較的小さな地震であったが、地震動の大きさは設計で想定していた四五〇ガルを大きく超え、一号機では一六九九ガルに達した。想定した地震動が小さすぎたのである。地震の評価の仕方が適切でないということで、それ以前から耐震安全指針の改訂が進められていたが、この中越沖地震を契機に日本にある全原発の耐震強度の見直し(バックチェック)が進められた。新しい基準地震動の考えが導入され、柏崎刈羽原発については、現実に起こった地震動を考慮して一~四号機で二三〇〇ガル、五~七号機で一二〇九ガルが設定された。しかし、それ以外の原発は、福島第一原発を含め一律に六〇〇ガルと設定された。
 今回の東北大地震は、この基準地震動から想定された建屋基礎版の揺れを超え、この基準地震動の設定が不十分であることを示した。実際に外部電源を供給していた送電線は倒れ変電所は故障し、大事故の引き金を引いた。その後は津波による浸水や燃料タンクの流出で補助電源であるディーゼル発電機が故障し、全電源喪失となったが、事故の進展プロセスから推定すると、地震による一号機での再循環配管の破損、二号機での格納容器下部のサプレッションチェンバー(圧力抑制室)の破損、四号機使用済燃料プールのスロッシング(地震によって液面が波打つ現象)と破損が疑われる。福島第一原発は地震と津波のダブルパンチを受けたのである。
 地震で危機的状況に陥ったのは、福島第一原発だけではなかった。福島第二原発では冷却材浄化系が停止し、東海第二原発では外部電源が三日間に渡って喪失し、ディーゼル発電機の一台も故障した。女川原発では、一号機で火災が発生した。さらにまた、非常時の防災の要と位置づけられていた各地のオフサイトセンターも地震で機能しなかった。これらから言えることは、原子力発電施設がいかに地震に対して脆弱であり、かつ、事故への備えがなかったか、ということである。

「事故の場合も破局的にならない」技術を
 原子力発電の技術的脆弱性は、地震だけにとどまらない。チェルノブイリ事故やスリーマイル島事故は、地震とは無関係に起こった。運転員の操作ミスや判断ミスが指摘されるが、それはどの技術でもありうることで、それをカバーするようにフェール・セーフの設計がなされねばならない。事故はさまざまな原因で起こりうる。小さなミスや機器の故障が、運が悪いと大きな事故へつながってゆく。原発でも多重防護の設計がなされていたはずだが、それが突破されてしまったのがこれらの大事故である。福島原発事故も同じである。
 原子力発電の本質的脆弱性は、あまりに莫大なエネルギー源を炉内に持ち込んでいるということである。その制御に失敗して核暴走(核爆発)を引き起こしたのがチェルノブイリ原発事故であり、核分裂反応停止後の過大な崩壊熱の除止に失敗して炉心溶融に至ったのがスリーマイル島原発事故、福島原発事故であった。しかも、その脆弱性は、放射性物質を大量に環境にまき散らすという危険と結びついている。
 完全な技術というのはありえない。人間の認識や経験には限界があるからである。とするならば、事故が起こった場合でもそれが破局的なものにならないような技術でなければならない。原子力発電はそのような受忍可能な技術ではない。加えて、使用済核燃料(死の灰)を、われわれの手がとどかない一〇〇〇年も先の遠い未来にわたって管理することを強要する……被曝労働が避けられないという現実とあいまって、原子力発電は人類と共存できない捨て去るべき技術である。

避難の急務と補償
 福島原発事故は、チェルノブイリ事故と同じレベル7の「深刻な事故」であると認定された。事故が起こった当初、東京電力や保安院、テレビで解説する学者たちは何を言っていたか? 水素爆発は起こったが、原子炉や格納容器は無事だ、チェルノブイリのような大事故になる心配などまったくない、と楽観的な予測を述べていた。しかし、事故を小さく小さく見せようとするそれらの発言は次々と現実によって裏切られ、遂にはレベル7の数万テラベクレル(1~10×1016Bq)の基準をも超える数十万ベクレルの放射性物質を放出するという大事故であることが明らかになった。
 事故を過小評価したことのつけは、避難指示の遅れとなり、妊婦・幼児を含む多数の住民を放射線被曝させる事態を生んだ。避難指示は二〇km圏内にしか出されず三〇km圏内は室内退避とされたため、事実上、その地域の住民は放射線から無防備の状態におかれた。さらに、福島第一原発の北西方向に当る飯舘村や浪江町の一部地域では、三〇km以上離れているにもかかわらず、事故三ヶ月後の現在、すでに累積線量が政府認定の居住許容限度二〇ミリシーベルトを超えてしまっている。さらに、五〇km 圏外の福島市、郡山市、いわき市でも、年間累積線量が二〇ミリシーベルト前後に達すると予測される事態のなかで、小・中学校・幼稚園は例年どおり新学期が始まり、妊婦・乳幼児の居住も続いている。
 首都圏の人びとは、福島原発や柏崎刈羽原発からの電力供給の恩恵に浴してきた。原発の電気を望んだわけではないにしても、事実としてそれを使って生活してきた。その供給地の人たちが苦境にあるなかで私たちは何ができるのか? 汚染地の人たちをそのまま放置しておいてはならない。"避難する権利"を保証すべきである。そのためには、全国各地の自治体・住民が受け入れ態勢を整えることと東京電力・国がその制度的補償をすべきである。
 汚染地域の農民・漁民は、東京電力に対し、出荷停止を受けた生産物およびいわゆる「風評被害」により売れなくなった生産物に対する損害賠償を求めている。当然のことである。原子力損害調査委員会は生じた損害のすべてを補償の対象とすべきである。
 この福島原発大事故からわれわれは何を学ぶのか。平和で安心な未来のために何を選択するのか。

(以下略、全文は本書)
(いの・ひろみつ/金属材料学)