2010年11月01日

『機』2010年11月号:巨大な歴史学の鉱脈 樺山紘一

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『アナール』誌を日本に紹介
 それは、ほぼ三〇年も遡る昔のことだった。その当時、(株)新評論の若手の編集者だった藤原良雄氏が来訪し、『アナール』誌の画期的な意義について語った。いまだほとんど暗中模索の状態であったし、そもそも意見を求められたわれわれですら、自信のない手さぐりのなかだった。二宮宏之氏という偉大な知識人ひとりをのぞいては。
 語りあうごとに少しずつ判明したのは、『アナール』誌につどった歴史家たちが、解明しようとしているのは、なにか重大な宝庫なのではないかということ。わたしたちは曖昧ながらも掘りあてた鉱脈の巨大さに当惑し、二宮氏の導きのもとで、ひとつひとつの鉱石の意義を検証しようと努めた。分かってきたことはといえば、その鉱脈は、二十世紀の人文学のうちでも、もっとも大きなもののひとつ、しかも未だ十分に解明しがたい巨大さ。
 あまりの浩瀚さに驚きつつ、掘り進むと、次第に見えてきた。やがて少しずつ鉱夫の数もふえてきて、ついに『アナール』誌の全容が現れはじめた。その鉱夫仕事の緩さにいらだちつつ、それでもようやくわたしたちにも手の届く限りの全容が。なんとも情けない顛末ではあった。そしていま、アナール派の八〇年にわたる仕事の輪郭をかたるにふさわしい時代をむかえた。「アナール派は人間不在の冷たい科学だ」とか、「フランスに固有の科学主義の歴史発想だ」といった、特有の誤解もようやく解除され、二十世紀がうんだ大きな脈絡としての意味も、ようやく把握が可能となってきた。
 じつは今回アンソロジーの構成をみて、判明したことには、すでに一九六〇年代初めには、河野健二、豊田武氏らの論考が『アナール』誌に掲載されている。また、今回は収録されなかったが、すでに一九三〇年代には、当時、アメリカ学界で堂々とした論陣を張る朝河貫一氏が、ヨーロッパの学界を背景として、すぐれた考察を発表している。そのことも、ようやくのちになってわたしたちの知ることになった。
 これらの先駆的な作業についても、あらためて考察の対象となるべきだろう。つまり戦前にはすでに、アナール派は国際的な規模での学問流派となっていた。わたしたちが、その動向に十分の注意を払わなかったばかりのことである。ちなみに「アナール派」の評価は、すでにS・ヒューズ『ふさがれた道』の日本語版によって、一九六〇年代初めには告知されていた。もっともあらかたは、後知恵として確認されたにすぎなかったのだが。
 いま、あらためてこのアンソロジーを通観してみると、なおも把握に余る細部にあふれていることに気づく。「クリオは細部に宿る」とは、歴史学の格言であるが、ここでも十分に妥当する。細部を、総体としては巨大な鉱脈に組みあげること。これこそが、「アナール派」としての構成原理にほかならない。


アナール派八〇年を迎えて
 なぜ、これだけの歴史学の鉱脈が、ながらく日本では手つかずで放置されてきたのかは、さしあたり不問に付そう。戦後歴史学のあまりの光輝のゆえに、ほかの光源のことに気づかなかったからだと、一言、触れておくことにしたい。ともあれ、この三〇年間のうちに、日本の歴史家の努力によって、無限にもみえたかなたとの差異はずっと縮まり、ほとんど旬日の距離にもなった。あるいは、すでにキャッチアップすら完遂しているかもしれない。そうであったからこそ、わたしたちは醒めた眼で、その距離を計りとり、今後の行く末を考えることができる。
 思えば長い道程だった。わたしたちはアナール派の紹介や導入を独占するわけでは毛頭ないが、ともあれ三〇年前の事態を目撃したものとして、その後の展開を見届ける責務を痛感している。すでに故人となった二宮氏への感謝とともに、このことを肝に銘じ、これまでのいく度にもわたる錯誤を読者たちに詫びつつも、その後の大きなアナール派紹介の波が、効果的な成果を生んできたことを喜びたいと思う。
 むろん、この道程はそれでは終わらない。わたしたちが、みずからの才覚で開拓の作業にとりかかるべきだから。それは、想像するだに困難な仕事であるが、絶望しているわけではない。どうか、その辛苦のためにあらたな支援の声を送りとどけていただきたい。

(かばやま・こういち/印刷博物館館長)