2010年09月01日

『機』2010年9月号:レッスンする人 竹内敏晴

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「目的」を疑いながら生きること
 武術家にしても、目的を持っている武術家、つまり、何としても勝ちたいと考える人のことですが、そういうタイプの武術家が重用される社会というのはあるだろうし、むしろそれが社会というものの本質だと思います。成長したいとか、経済成長したいとか、我が国を世界一にしなければいけないという、そういう目的をもったうえで何かの方法を組み立て、体系を作って、それに準じて学ぶことのできない者をふるい落としていくといったような……。
 で、私は、子どものころから、そういう体系からは、存在として抜け落ちているところがあったんじゃないかという気がする。つまり、それだけじゃやる気にならないという拒否の心が、あらかじめあったんじゃないかと思うんですね。あらゆる場所で社会的な目的意識を疑い、「生きること」と仮に言っておいていいと思いますけれども、その一点に自分を置き続けてきたわけですから。
 戦後日本には、目的がない存在の世界に伴う厳しさや辛さに対して、何も反省的に考えないからヒューマニズムが成り立ったという皮肉があって、私のレッスンには、そこを手を変え品を変えて追い詰めていくところがある。
 「お前、その動きに根拠はあるの」という言い方はあまりしませんが、「お前は本当に動きたくて動いているのか。おれにはそこが伝わってこない」ということを、突きつけるわけです。「動きたくないけれども動かないといけない」と思っている人には、そこが面白く、同時に辛いわけだけれども。

「からだ」という連続性への自覚
 で、これを戦争、あるいは終戦ということにあえて絡めて考えてみると、前に、「ゼロからはじめる」という言い方をしましたが、これは、見方によってはいろいろなレベルの判断が可能で、混乱を誘うところがあると思うんです。ことばの上でゼロからはじめようというだけの人なら、戦後の日本にもかなりいたのではないかと思うから。
 つまり、戦前との日本的な連続性を捨てて西洋風の民主主義でやっていくのがいいと考えるのもゼロからはじめる態度だとすれば、戦後の日本社会には、根こそぎになった過去を棚にあげて自分は変わらないまま前に進むことと、もう一つはからだに残ったどうしようもない連続性を自覚しながら、それを立て直すために自分を更新するという二つの態度があって、これを明確に区別しないまま、どちらもゼロからはじめる態度だとみなすような「ひねり」があったと思うんですね。
 私自身は後者でしたし、それはごく少数派であったのだと思いますが、前者に当たる人たちが自分もゼロからはじめたと感じて省みないということが十分にあり得たんだと思います。私は、魯迅のように、自分の継続性をよくも悪くも自覚した上で、たとえどんなに都合が悪くとも、過去の検証と悔悟の上に立って前に進まないといけないのではないかと思います。
 そんなことを考えると、後者の意味でゼロからはじめた人が意外に少ないということにある本当の意味が、どこかでぼやけてしまうような気がするんです。私は、その連続性が何かというところを、「からだ」と言い募ってきたのかもしれないけれど。

人間存在の根底をどう見極めるか
 ヴァレリーの『精神の危機』を読んだのはだいぶ前のことで、いずれ読み返してみたいと思っていますが、なかなか余裕がありません。あの本は、自分の思想傾向がよくなかったとか、人間的な本来の観点からいえばヨーロッパ知性というものがこういう点で足りなかったと読むこともできるけれど、それだけでは足りないと思うんですね。
 どういうことかと言いますと、つまりヴァレリーは、人間存在が揺らいでしまう事態を前にして、その人間存在の根底をどう見極めるかという問題を扱っていると思うんです。一般的にはヨーロッパ精神の批判と言われているけれども、表面的なヨーロッパ批判というより、もっと根源的な、ソフィアといっていいかロゴスといったらいいか、そのあり方を、外から批判するという形ではなく、彼自身の中にあるわからないという感覚と真っ向から向かい合いながら考えていると思うんです。 (構成・編集部)


(たけうち・としはる/演出家)
*全文は『レッスンする人』に収録。