2007年04月01日

『機』2007年4月号:現代の視線に耐え生き延びる 多田富雄

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●なぜ今こそ能が必要なのか。その現代的意味を説く。

この本は前著『脳の中の能舞台』(新潮社)に続く、能に関する随想集である。

闘病中の心の支え
 私は2001年の5月に、旅先で脳梗塞の発作に見舞われ、右半身麻痺、仮性球麻痺を伴う高度の脳機能障害に陥り、死線をさまよった。3日目に意識が戻ったときは、体が麻痺し、声を失っていた。叫んでも声は出ない。苦しみを訴えることさえ出来ない、鉛のような沈黙の世界に突然投げ込まれたのである。能『鵜飼』で、簀巻きにされ川に流された漁師が、「叫べど声の出でばこそ」と恐怖の声をあげるが、まさしくそれだった。
 そんな中で、まだ自分であるかどうかを確かめるために、声のない謡を恐る恐る謡ってみた。初めは、『羽衣』の一節を口ずさんだ。声は出なかったが、全部覚えていたので安心した。これで、私は自分が生きていることを実感した。大げさかもしれないが、能が私を精神的に救ったのである。
さらに『歌占』を復唱した。難しい地獄のクセ舞だが、これもすらすらと出た。しかし3日間無意識のうちに経験した、無間地獄のような苦しみが蘇って、謡っていても身の毛がよだった。まさしくそれは、『歌占』のシテ、死んで3日目に蘇った「某」と同じ経験だった。ことに私は喉の筋肉が麻痺して、火のように喉が渇いても、水を一滴も飲み込むことが出来なかったので、「餓えては鉄丸を飲み、渇しては銅汁を飲むとかや」という一節では、涙が止まらなくなったことを思い出す。死地を脱した後も、能は闘病中の私に大きな心の支えになった。どんなに苦しい、絶望の日でも、能の一節を思い浮かべて耐えた。

心耳で聴く
 私は学生のころから、大倉流の大鼓、小鼓を習ってきた。一生懸命にやったので、難しい曲まで覚えているが、右手が動かなくてはどうにもならない。時折夢で小鼓を打っているところを見る。そんなときは、美しい音にうっとりと目が覚めるが、その後は決まってどうにもならない喪失感にさいなまれる。稀少な、 200年も経った老皮も手に入れたばかりなのに、もう鼓は打てない。悲しかった。
 しかし、音を想像することは出来る。古人は「心耳で聴く」といった。「心耳」で鼓の音を聞き、無音の謡曲を謡う。すると見えない舞台に舞が見えてくる。私は、ともすると絶望的になる入院中も、私の「脳の中の能舞台」で、いくつもの能の名曲を鑑賞した。不思議に心が休まり、苦痛による精神の崩壊を回避できた。
 どんなに忙しくても、どんなに貧乏でも、能楽堂に通ったご利益が今現れていると思った。道楽はしておくものと、誰かが言ったのを思い出した。体が動くようになったら、能を見に行こうというのが、つらいリハビリの入院生活を支えてくれた。念願がかなって、病後初めて観たのは、幸運にも関根祥六師の『関寺小町』の能であった。何十年に一回しか上演されない、能の中での最奥の秘曲に、それも名手による披演にめぐり合ったのは幸運だった。でもそのころは、いくら感激しても感想すら書けなかった。
 その後、体の状態がよければ、時々は能楽堂に顔を出すようになったが、身体障害者第2級の私には、能を観に行くにも付き添いがいるし、座席にもうまく座れない。幸い国立能楽堂では顔を覚えてくれて、車椅子でも見られる席を用意してくれた。観世能楽堂も、入り口にスロープを作ってくれたし、宝生能楽堂は、障害者用のトイレを作ってくださった。人の情けというものをつくづくと感じた。
 しかし、障害を受けた私の脳は、どんなに集中して観ても、装束の模様とか、演技の細部や囃子の手などは、メモが取れないので覚えられない。昔はこんなことはなかったのにと嘆くことしきりである。でもかえって細部にとらわれることがないから、全体の感動はより直截なものになる。
 朝日新聞の能評も再開することになったが、以前のように頻繁に能楽堂へ行けない。どうしても前評判の狙い撃ち的能評になる。だから、魂を鷲8€みされるような能にはなかなか出会えない。

新作能三部作
 その間に、私の新作能がたびたび上演されるようになった。アインシュタインの相対論と平和思想を、東洋の禅の思考法で表現した『一石仙人』は、1999 年に書いたまま上演はされなかったものだった。それを、私を元気付けるために、横浜の友人が企画して、2003年に横浜能楽堂で初演された。私は初めて遠出して、横浜まで申し合わせ(舞台稽古)に参加して、いろいろ意見を述べた。その後各地で上演され、演出も洗練されていった。それが、2006年の世界物理年には、日本委員会の公式行事として取り上げられ、世界に向けて発信された。
 その間に私は二つの新作能を世に送った。長い間自分の中では封印してきた主題を、広島、長崎の、被爆60周年を記念して書いたものである。それぞれの被爆の悲劇をつづったものである。被爆体験という表象不可能なものを、能のミニマリズムでどこまで表現できたかおぼつかないが、心の重荷を下ろした。
 広島の『原爆忌』は、被爆者への鎮魂の曲となり、『長崎の聖母』は瓦礫の中からの再生と復活を祈ったものである。前者は観世榮夫師と「能楽座」によって、広島をはじめ各地で毎年上演されている。『長崎の聖母』は、清水寛二師らによってこの能の舞台となった浦上天主堂で初演され、そのトポスの力と、グレゴリオ聖歌とアンゼラスの鐘の音に彩られた感動的な舞台となった。東京での上演も予定されている。
 これに沖縄戦の悲劇を描いた『沖縄残月記』を加えて、私の三部作は完結する。沖縄での初演が待たれる。病気になる前からの宿題だったが、何とかこれで念願を果たしたことになる。これらの台本は、2007年中に藤原書店から出版される。
 病勢盛んなときには、もうあきらめていたこの本も、何とか形になった。この本は、私の能の創作活動を支えてきた思想を、随想として書き散らしたものを集めた。そこには、私の能に対する愛着と、反動としての抵抗がある。そして何よりも、能が現代の視線に耐えて生き延びる、魅力的、創造的な演劇であるという信念が読み取れると思う。


(ただ・とみお/免疫学者)