2007年04月01日

『機』2007年4月号:ヘルダーリンから始まる 西山達也

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●全集未収録のヘルダーリン―マルクス論をめぐるハイデガーvsラクー

「精神たちのコミュニズム」
 フィリップ・ラクー=ラバルトは、アナ・サマルジャとの共訳により独仏対訳で刊行したハイデガーのテクスト『貧しさ』(Die Armut / La pauvret€驕jに長大な「序説」(本書では「『貧しさ』を読む」と改題)を付し、そのなかで、ヘルダーリン、マルクス、ハイデガーという三人の人物が登場する奇妙な場面を演出している。それは一篇の詩的断片の伝承の場面である。その断片はヘルダーリンが執筆したとされるものであり、「精神たちのコミュニズム」という題名が付けられている。ハイデガーは、当時刊行されたばかりの全集版(ヘリングラート版、第三版)のなかにこのいわくありげな断片を見いだし、独創的な仕方でこれを解釈している。彼はこの断片を解釈するにあたり、当然のことながら「コミュニズム」という語につきまとうマルクスの影を追いはらうことができずにいる。あるいは彼がこの断片を選択したのは、ヘルダーリンとマルクスを並行して読解することを企図してのことであったのかもしれない。いずれにせよ、「貧しさ」の問いのもとに、この二人の偉大な「預言者」が召喚されているのである。

ヘルダーリン―マルクス―ハイデガー
 そもそもヘルダーリンとマルクスという取り合わせ自体は、それほど意外性に富んだものではない。両者を併読するという試みは、20世紀前半における保守思想の平均的な企図に合致するものでさえあった。だが、ハイデガーによるマルクスとヘルダーリンの併読の仕方は錯綜している。彼はヘルダーリンの詩的断片「精神たちのコミュニズム」に耳を傾けることで、同時に、そのうちにマルクスの声を聴き取り、最終的には、ヘルダーリンの声とマルクスの声を区別する必要のなくなる次元にまで到達しようとする。この試みの成果を凝縮させたのが、「貧しさ」と題されたテクストである。

ハイデガー最後の講演「貧しさ」
 講演「貧しさ」は、ハイデガーの数多くの講義・講演群のなかでもまだあまり知られていないテクストであり、1994年に『ハイデガー研究』誌で公表されたのち、クロスターマン社より刊行中の全集にもいまだ収められていない。もとは1943―44年に執筆された草稿群の一部であるようだが、これが公的な場 ――とはいえフライブルク大学哲学部の疎開講義という半ば非公式な場であったが――で発表されたのは1945年6月27日のことである。この日付は二つのことを意味する。第一に、この講演は、ドイツ第三帝国の崩壊と戦争終結、占領、分断、そしておそらく食糧不足、配給難といった外的状況。そして第二にこの講演が、戦後ハイデガーがフライブルク大学での教職を停止される前の最後の講演だということである。これらの事実がハイデガーの伝記研究者たちの関心をかきたて、オットやザフランスキー、あるいはペゲラーらが調査を遂行した。

ヘルダーリンから始まる
 「ドイツの破局」という歴史的運命とハイデガー自身の個人的運命が重なり合うこの特殊な状況下において、講演「貧しさ」は、ヘルダーリンの詩的断片―― 正確に言えば「精神たちのコミュニズム」と一体をなす「構想」という歴史的素描――から抜粋されたひとつの「箴言(Spruch)」を注釈する。
   我々においては、すべてが精神的なものに集中する。
   我々は豊かにならんがために貧しくなった。
 すべてがヘルダーリンの草案から始まる。

(にしやま・たつや/ヨーロッパ近現代思想)