2005年06月01日

『機』2005年6月号:音楽の「意味」の多層性 前島良雄

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日本のマーラー受容の危うさ
 1990年ごろをピークに、マーラー・ブームといわれるものがあった。コンサートで盛んにとりあげられ、CDは次から次へと新しいものが出され、さらには女性誌までもが、「マーラー特集」などを組んだりした。そのような「ブーム」はいつしか鎮まったが、コンサートのレパートリーとしてほぼ定着したし、また、CDも引き続き、というか、さらに一段と多く、新しいものが出され続けている。
 そのような状況の中で、日本語によるマーラー関係の文献もすでにかなりの数のものが出版されている。それらの中には、たいへんすぐれたものもあればそうでないものもあることは言うまでもないことである。
 だが、欧米に比べると、コンサートでの演奏頻度の高さやCDの発売量の多さの割には、文献の量が少ない。あまりにも少なすぎると言わざるをえないのではないか。このアンバランスには危ういものがある。
 「音楽」というものは、聴いて何かを感じとればそれでいいというものではないか、という素朴な意見は、対象が「クラシック音楽」、それも「マーラーの交響曲」ということになる場合には、やはり正しくないと言わなければならないのであって、知的に理解する必要がある(というのはあまりに大きな問題なのだが、ここで詳しく論じる余裕はないので、反発は覚悟しながら断言するだけにしておこう)。
 というわけで、フローロスである。


なぜフローロスか
 フローロスのマーラー論は、作曲家の生の中から作品がどのようにして成立してくるのか、そして、その作品にはどのような意味があるのかということを包括的に捉えたものとしては、(強引なところも多々あるのだが)随一と言えるものである。そうであるからこそ、今までに多くの論者によって、断片的・部分的に引用され、言及されてきたのであろう。だが、さかんに引用され、言及されてきているにもかかわらず、まとまった著作が日本語で紹介されなかったのはなぜだろうか。
 おそらく、フローロスという学者が、普通は「標題音楽」とは考えられていない音楽までも「標題音楽」として捉える人であると思われていて、敬遠されているということが理由の大きな部分を占めているのであろう。 そう。フローロスを通して、あるいはフローロスを参考にしてマーラーの交響曲を聴くということは、マーラーの交響曲を「標題音楽」として聴くということである。このように言うと、不愉快そうな顔をする人がかなりたくさんいる。クラシック音楽愛好家の中には、ある音楽を「標題音楽」として捉えることに対するためらいのようなもの、場合によっては軽蔑のようなものがあるからである。
 なぜそんな傾向があるのか。
 それは、「標題音楽」という言葉が、まったく誤解され、矮小化されて使われていることに原因がある。
 辞書で「標題音楽」を引いてみると、「文学的内容や絵画的描写など、音楽以外の観念や表象と直接に結びついた音楽」というような説明に出会うことになる。要するに、なにかある音楽以外のものを、音楽を使って表現しているのが「標題音楽」であるということである。
 そのようなものが「標題音楽」であるのならば、ある音楽を「標題音楽」として捉えるということは、音楽を一義的に音楽以外のものに還元できるものとして捉えるということになってしまう。音楽の絵解きである。なんとつまらない。
 だが、「標題音楽」として捉えるということはそんなことではない。そもそも辞書にある「標題音楽」の説明が誤りなのである。
 音楽が生成していく、音楽を超えたひとつの世界、その世界を実現している作品の多層性を明らかにしていくこと、それが「標題音楽」として捉えるということなのである。

(まえじま・よしお/音楽評論家)