2004年10月01日

『機』2004年10月号:ユダヤ=キリスト教の彼方へ 大野一道

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 ジョルジュ・サンドの『スピリディオン』は十八世紀イタリアの、ある修道院を舞台にした小説である。ほぼその一世紀前にその修道院を創設した修道士スピリディオンは、最終的に自らが到達した信仰の真実を書き記した文書を、自分の遺体とともに墓の中に収めさせる。その事実は、彼の精神的相続人として指名されていった三代にわたる弟子たち、フルジェンチェ、アレクシ、アンジェロにしか知らされない。物語の最後で墓は暴かれ真実は明らかにされるから、これは一種の謎解き物語となっているし、その過程で、死せるスピリディオンはしばしば亡霊となって弟子たちのもとに現れるから、その点では、十八世紀末にイギリスで流行した恐怖小説の変形といった趣もある。

「永遠の福音」を求めて
 スピリディオンはユダヤ人として生まれた。ヨーロッパ各地を遍歴するうち、「他のすべての民を排除してただ一つの民のために作られた宗教」ユダヤ教を捨て去る。そして個々人の理性による自由検討の意義を強調するルターの信仰に心引かれる。が、それにも満足できずカトリック教徒となり、伯父の一人が残してくれた莫大な遺産をもとに、イタリアの地に修道院を作り、その大修道院長となった。表面的には模範的な生涯を過ごした彼だが、内面にはすさまじい葛藤があった。
 自分が信頼できると思って集めた修道士たちが、「豊かさに慣れるにつれ……悪癖や悪徳に」染まっていく現実を知ったし、カトリックの実体が権力欲や名誉心といった極めて物質的な欲望に支配されているのに気づき絶望もした。そこから、真に信じるのに足るものを求めての孤独な探究がはじまる。その精神的彷徨がこの小説の主要なテーマであり、後の精神的後継者たちの生き方にも同様のテーマが繰り返される。
 後継者として選ばれたフルジェンチェは、死を前にしたスピリディオンからすべてを打ち明けられる。かの文書は、それを理解できる者にのみ渡されるべきであって、「野心家たちの手の中で、地上の権力手段」として使われたりしてはならないという師の言葉を守り、それを師の棺の中に隠す。そして自らがそれを理解できるなどとはつゆ考えず、死を迎えたとき、後継者として選んだアレクシに初めてその事実を告げる。
 ここまでの経緯は、じつはこの小説の中で、アレクシがやはり自分の精神的後継者だと認めたアンジェロに明かしたもので、この作品の大半は、アレクシ自身がどのような精神的歩みをなしてきたかを、弟子に語る回想部分で占められている。
 アレクシは、もちろん最初はカトリックへの信仰をもっていたが、その後プロテスタンティズムに傾く。「イエスに対する最高の敬意」は持ち続けながらも、それが神そのものであると特権化することがやがてできなくなる。ついには十八世紀の無神論的哲学にも惹かれるが、宗教的情熱、「神的存在への願望」は残っている。とはいえキリスト教の、とりわけカトリックの特権意識、自らを「人類の始まりであり終りであると思い込む」ようなそれへの反発を覚えて苦しむ。そして死の間近いことを知ったとき、アンジェロに頼んでスピリディオンの墓を暴き、中に隠されていた文書を取り出す。そして、その文書の中に「永遠の福音」のメッセージを見出す。いったいそれは何なのだろうか?

ルルーの影
 いずれにせよ、ユダヤ・キリスト教の生まれる以前から人類はあったのであり、エジプト、インド、ペルシアその他さまざまな文化が存在した。最終的にアレクシは「われわれに先行する人類全体への啓示の展開の中に真理を探そう」という心境になるが、そこに、サンドの精神的師ともいえるピエール・ルルーの思想が投影されているのは間違いないだろう。ルルーは人類は一つと説き、全人類(あらゆる宗教を信仰する者のみならず、無神論者その他すべてを、しかも過去や未来の人々も含めて)を連帯させうる、キリスト教を超えた原理を模索していた。
 じっさい『スピリディオン』の巻頭には、ルルーへの献辞が置かれている。この作品は発表当時から、ルルーの影響を指摘され、中には、一部ルルーの筆になる箇所があるなどと言った者もいたくらいである。この説は、膨大なサンド書簡集を刊行したジョルジュ・リュバンの研究によって、後に完全に否定される。
 本書のような哲学的小説が女に書けるわけがないといった、いわれなき偏見が支配していた時期もあったのである。
 たしかにこの小説には、知的要素が勝っているかにみえる面もある。登場人物に女は一人もいない。もしも作者の名前を隠しておいたら、執筆当時三十三~四歳の若い女性が書いた作品だなどと、誰が思いつくだろうか。

西洋的、男性的原理を超えて
 しかし仔細に見れば、女性らしい情感にあふれたページを数多く発見できる。アレクシは一時ペストがはやったとき、修道院外でひとり暮らす年老いた陰修道士のところにいって過ごし、死を前にした患者たちへのひたむきな献身の姿を見て、そうした愛の実践こそ信仰の真実であると悟る。そして千万の理屈や教義の中に神は宿りはしない、ただ愛の中にのみ神はあると思う。それは作者自身の信念以外の何ものでもない。
 また修道院の庭の片隅で自分が育てた花々を見ながら、次のように感じたとアレクシがアンジェロに述べる場面がある。


 「わしはまた、一年の終りに咲く花々を見るのが好きだった……わしは植物が生育するのと同じように生きようと努めてみた。思考を働かせるという習慣を忘れようと思った。そうやって一種のまどろみのような状態、覚醒でも眠りでもなく、苦痛でも快適でもない状態に達した。このほのかな快さ……その時のわしの至福感は、とりわけ過去の記憶を忘れ去り未来への懸念を持たなくなることにあった。わしのすべては現在に存在した」


 ここには東洋的悟りに通じるようなものがないだろうか。自然へのこうした細やかな感性は、サンドを男性的原理に満ちた一神教であるユダヤ=キリスト教の彼方へと誘ってゆくことになったのかもしれない。
 ところでドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマとアリョーシャの対話が『スピリディオン』のアレクシとアンジェロのそれを踏まえたものだと言われるくらい深く学んだらしい。それは神が死につつある時代に、全人類が何をもとに連帯して生きてゆくかという大問題を、早くもサンドが考え始めていたとドストエフスキーが感じたからに他なるまい。

(やまだ・としお/名古屋大学教授)