2005年10月01日

『機』2005年10月号:奇縁 粕谷一希

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 坂本多加雄君と私とでは、二十歳の年齢の開きがある。本来なら、縁のできるはずもないのだが、坂本君が大学から大学院に進むころ、かつて私も所属していたインターカレッジの学生団体・土曜会に入会してきたことから不思議な縁がつづくこととなった。
 坂本君は、やはり私の友人で土曜会のメンバーであった岩崎寛弥が個人的に設立した学生寮に寄宿した。その上、私の一高時代の同級生で、駒場で比較文学専攻の学者となった芳賀徹の家の家庭教師となった。そんなことから坂本君の印象は強く、噂話も入ってきた。
 我が家は、昔から貧乏なくせに、人を集めて騒ぐことに、私だけでなく家人一同が好きで、よく学生や編集者や研究者・学者・文士が集まった。
 大学院生のころは、坂本君は土曜会の読書会のリーダー格で、十名前後の学生を率いて我が家にやってきた。あるとき、坂本君が述べた〝丸山眞男評〟が、私の脳裏につよく刻みつけられた。その批評が鋭く、私自身啓発されるところがあったことを鮮明に記憶している。
 坂本君は本当の本好きだった。本好きというより古本好きだった。よく私と会うと、神保町の古本屋の店頭で見つけたゾッキ本の明治年間に刊行された書物を得意そうに私に見せた。「ああ、この男は本当の学者になるな」というのが私の実感だった。当時、彼は福地桜痴や山路愛山、中江兆民など、在野の文人を研究対象としていたせいもあるが、神保町の古本屋めぐりには、そうした研究を越えた無償の喜びがある。この愉悦感をもてる者だけが、真の学者の条件を備えるといってよい。
 あるとき、坂本君に創文社の相川養三君を紹介した。彼が『山路愛山』の研究を吉川弘文館の人物叢書として出したとき、当初の研究の姿を大幅に削られてしまったことを歎いていたからである。当時、学者が安心して研究書を出版できるのは、岩波を別として創文社くらいしか存在しないのが実情だった。
 相川君の厚意で、坂本君の『市場・道徳・秩序』は創文社の自由学芸叢書の一冊として刊行された。そしてこの書物は、その年のサントリー学芸賞を獲得した。この書物は明治思想界の大物、諭吉・蘇峰・兆民・秋水などを素材としながら、同時に、1990年代にもっとも問題とされた市場主義の経済思想を、広く道徳や社会秩序との関連で考察し、論じたものであった。 一方で、西洋思想と正面から対決した明治の思想家たちを扱いながら、今日のもっとも現代的な課題を考える姿勢、それはきわめて古典的でありながら、ラディカルな姿勢と評してよい。こうした態度は、青年期のながい沈潜期に耐えて、研究生活に専念した結果であり、成果といってよいであろう。
 1990年代、坂本多加雄は『日本は自らの来歴を語りうるか』『象徴天皇制度と日本の来歴』という二冊の歴史書を公刊した。どちらも日本人のアイデンティティーを求め、難問に真正面から取り組んだ問題の書である。
 こうした問いかけは、近代的な実証主義史学の範疇を越えて、実践的姿勢に踏みこんでいるのである。来歴という言葉は、そうした微妙なニュアンスを捉えた美しい日本語である。
 当時、私が関係していた『文化会議』『アステイオン』『国際交流』『外交フォーラム』など、彼は常連の執筆者になっていた。『著作目録稿』を眺めると、彼と私の、著作家と編集者の挑戦と応戦ともいえる協同作業があまりに多かったことに今更ながら驚かされる。
「通史を書きたい」とは、彼があるころから口癖のように語っていたことであった。彼から見ると、あまりにもゆがめられた通史が多く、公正な通史の必要を痛感していたためだろう。
 そこから坂本君は教科書問題の世界にコミットしていった。私は啓蒙的な仕事でありながら、その実、多くの党派性と商売のからんだ世界への介入には反対であった。しかし、彼は学者らしい学者でありながら、情念の人でもあった。
 いまとなると、彼の迷いと模索とパトスのすべてを、私は認めたいと思う。
 晩年の彼は、〝国家学〟の必要を痛感していた。国家学からの自立を政治学に要請した丸山眞男の戦後テーゼのその後の道行きと帰結は、国家観の喪失だったからである。

(かすや・かずき/評論家)