略年譜
1840年 | 0歳 パリに生まれる。 |
1843年 | 3歳 南フランスの町エクスに移る。 |
1847年 | 7歳 父フランソワ没、一家は困窮状態に。 |
1852年 | 12歳 ブルボン中等学校に寄宿生として入学。セザンヌとの交流が始まる。 |
1854年 | 14歳 この頃からデュマやシューの新聞小説、ユゴーやミュッセなどロマン派の作家を耽読する。 |
1858年 | 18歳 前年からパリに出ていた母を頼って、祖父とともにパリに居を構える。 |
1859年 | 19歳 バカロレアに失敗し、学業を放棄。貧しく不安定なボヘミアン生活を送りながら読書と詩作にはげむ。 |
1861年 | 21歳 パリに出て来たセザンヌと再会。サロン展やアトリエを訪れるうちに、若い画家たちと知り合う |
1864年 | 24歳 短篇集『ニノンへのコント』。 |
1865年 | 25歳 処女長篇『クロードの告白』。バルザック、テーヌ、ゴンクール兄弟の作品を熟読。活発なジャーナリズムへの寄稿が始まる。 |
1866年 | 26歳 一月、アシェット書店を退職。アレクサンドリーヌ・ムレとの同棲生活始まる。五月、エドゥアール・マネの知遇を得る。 |
1868年 | 28歳 『一家族の歴史』(全十巻)の構想。 |
1869年 | 29歳 『ルーゴン=マッカール叢書』のプランをラクロワ書店に提出、受理。 |
1870年 | 30歳 五月、アレクサンドリーヌと結婚。九月、普仏戦争勃発に伴いマルセイユに移住、さらにボルドーに向かう。 |
1871年 | 31歳 議会通信を新聞に連載、政界を批判。三月、パリに戻る。十月、『ルーゴン家の繁栄』。 |
1872年 | 32歳 七月、ラクロワ書店が倒産、シャルパンチエ社と出版契約を結ぶ。フロベール、ドーデ、モーパッサン、ツルゲーネフらとの親交が始まる。 |
1874年 | 34歳 マラルメとの交流が始まる。 |
1877年 | 37歳 一月、『居酒屋』。激しい毀誉褒貶にさらされながらベストセラーとなり、生活は経済的に安定する。五月~十月、南仏レスタックで休暇。 |
1878年 | 38歳 五月、パリの西郊メダンに別荘を買う。これ以降、年に数カ月はメダンで過ごし、必要に応じてパリに出る。ユイスマンス、セアール、ブールジェ、ヴァレスら若い作家たちとの親交が深まる。 |
1879年 | 39歳 一月、小説を翻案した戯曲『居酒屋』がアンビギュ座で上演され大成功。地方や外国でもやはり大きな成功を得た。友人たちがしばしばメダンを訪れる。 |
1880年 | 40歳 五月、フロベール死去。十月、『実験小説論』。 |
1881年 | 41歳 過労のせいか健康状態すぐれず。 |
1882年 | 42歳 四月、『ごった煮』。作中人物の名前にからんで民事裁判となり、作家の表現の自由をめぐって論争が巻きおこる。 |
1883年 | 43歳 フーリエ、プルードン、マルクスら社会主義者の著作を読む。 |
1884年 | 44歳 二月下旬から三月初めにかけて、『ジェルミナール』の準備のため北フランスの炭坑町アンザンを訪れる。 |
1885年 | 45歳 三月、『ジェルミナール』。十月、『ジェルミナール』の戯曲への翻案が禁止され、『フィガロ』紙で激しく抗議。 |
1887年 | 47歳 『大地』。この作品を機に反自然主義の傾向が鮮明になる。 |
1888年 | 48歳 七月、レジオン・ドヌール・シュヴァリエ章受章。八月、ジャーナリスト・ビヨーから写真の手ほどきを受ける。十二月、女中ジャンヌ・ロズロとの関係が生じる。 |
1889年 | 49歳 三月、鉄道小説準備のため、ル・アーヴル、ルーアンを訪れ、パリのサン=ラザール駅を見学。五月、アカデミー・フランセーズに立候補するが落選。以後一八九七年までしばしば立候補するがいずれも落選。五~十一月、パリ万博を数度にわたって見物。九月、ジャンヌとの間に長女ドゥニーズ誕生。 |
1891年 | 51歳 四月、文芸家協会長に選出される(~一八九四年)。また、戦争小説準備のためシャンパーニュ地方およびスダンに旅行。九月、ジャンヌとの間に長男ジャック誕生。 |
1892年 | 52歳 八月、妻アレクサンドリーヌ、ゾラとジャンヌの関係に気づく。八~九月、南仏からイタリアに旅行。その途中ルルドに立ち寄る。 |
1893年 | 53歳 『パスカル博士』。『ルーゴン=マッカール叢書』全二十巻が完成。 |
1895年 | 55歳 四月、文芸家協会長に再び選出される。夏、ジャンヌと二人の子供のためにヴェルヌイユに家を借りる。 |
1897年 | 57歳 十月、ドレフュスの無実を確信、暮れからドレフュス擁護の記事を発表。 |
1898年 | 8歳 一月、『オーロール』紙に「私は告発する!」を発表。パリ重罪裁判所で懲役一年、罰金三千フラン。七月、ヴェルサイユ地裁でも有罪となり、ロンドンに亡命。 |
1899年 | 59歳 六月、イギリスから帰国。十月、『豊饒』。 |
1902年 | 62歳 九月、一酸化中毒により急死。暗殺の疑いがある。 |
1908年 | 遺骸がパンテオンに移される。 |
(作成:小倉孝誠)