後藤新平 略年譜・関連書籍

略年譜
1857(安政4)年 6月4日、陸中国胆沢郡塩釜村(現在の岩手県奥州市水沢区)に、留守家家臣の実崇、母利恵の子として生まれる。
1864(元治1)年 3月、武下節山の家塾に通い始め、漢学を修める。
1869(明治2)年 9月、藩校立正館に通いながら、安場大参事の学僕となり、3カ月後に岡田に預けられる。
1871(明治4)年 2月、嘉悦氏房に随い初めて上京、太政官少史荘村省三の学僕となる。4月、父から処世訓を寄せられる。
1872(明治5)年 前年荘村が来客に新平を朝敵の子と紹介したことに怒り、1月に帰郷、武下塾に再入門し詩文を修める。
1874(明治7)年 2月、福島県立須賀川病院付属須賀川医学校に入学。
1876(明治9)年 8月、愛知県病院三等医として医局診察専務となる。
1879(明治12)年 7月、公立病院一等診察医兼医学校監事となる。8月、医学校一等教諭兼務となる。
1881(明治14)年 1月、私塾対育舎を開き、50余人の子弟を育てる。10月、愛知医学校長兼病院長となる。
1883(明治16)年 1月、内務省出向を命じられる。父逝去。衛生局照査係副長となる。10月、衛生局内部改革の意見書を提出。
1889(明治22)年 8月、後藤の思想的根幹をなす『国家衛生原理』を著作刊行。長与局長の紹介で福沢諭吉と会見。
1890(明治23)年 4月、ドイツへ留学。9月、渡独以前に執筆していた『衛生制度論』が石黒忠悳の手で刊行される。
1892(明治25)年 6月、帰国。11月、内務省衛生局長となる。
1893(明治26)年 11月、相馬事件で拘引され、収監される。
1894(明治27)年 5月、相馬事件、東京地裁より無罪判決。保釈、出獄する。控訴なく晴天白日の身となる。徳富蘇峰と知り合う。
1898(明治31)年 3月、台湾総督府民政局長となる。『台湾日日新報』を創始。7月、台湾地籍・土地調査規則公布。
1901(明治34)年 6月、台湾総督府専売局長となる。10月、台湾旧慣調査会規則発布、調査会会長になる。
1906(明治39)年 11月、満鉄総裁、兼台湾総督府顧問、兼関東都督府顧問となる。勲一等旭日大綬章を賜る。
1907(明治40)年 5月、満鉄総裁として大連に上陸。6月、袁世凱と会見、箸同盟を提唱。11月、『満州日日新聞』初号発刊。
1908(明治41)年 7月、第二次桂内閣で逓信大臣となる。満鉄総裁被免。12月、新鉄道院総裁を兼任。
1913(大正2)年 2月、逓信大臣、鉄道院総裁、拓殖局総裁を免ぜられる。
1916(大正5)年 10月、寺内内閣で内務大臣に就任。
1918(大正7)年 4月、内務大臣から外務大臣に転じる。9月、寺内内閣総辞職に伴い依願免外務大臣。
1919(大正8)年 3月、欧米視察の途に(→11月)。8月、拓殖大学学長に就任(死去する1929年までその地位に)
1920(大正9)年 2月、日露協会会頭に就任。東京市会において市長に選挙され、東京府東京市長就任裁可となる。
1923(大正12)年 4月、ヨッフェと日露交渉で会談、東京市長を辞職。9月、山本内閣で内務大臣に就任、関東大震災。
1926(大正15)年 4月、政治の倫理化運動を開始し、事務所を日露協会内におく。10月、日独協会会頭に就任。
1927(昭和2)年 8月、二度目の脳溢血。12月、最後の訪ロの途につく。
1929(昭和4)年 4月13日脳溢血により死去。享年72歳
関連書籍

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