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エミール・ゾラ


 1840〜1902年。フランスの自然主義文学者。22歳ごろから小説や評論を書き始め、また美術批評の筆も執り、マネを擁護した。1871年、ライフワークたる「ルーゴン・マッカール叢書」第1巻『ルーゴン家の繁栄』を出す。自然主義文学の総帥として論陣を張り、『実験小説論』(1880年)を書いた。プルードン、マルクスらを読み、社会主義にも関心を示している。ドレフュス事件ではドレフュスを擁護し、「われ弾劾す」という公開状を発表、そのため、イギリスへの亡命を余儀なくされた(1898年)。翌年6月に帰国、空想社会主義的な『豊穣』『労働』などを書いたが、1902年9月29日、ガス中毒により急死。遺骸は1908年にパンテオン廟に葬られた。
 彼は小説家は主観を排し、試験管の中の物質の化学反応を見る科学者の眼で、社会環境という試験管の中に投げこまれた人間が、その遺伝素質に従ってどのように変化するかを観察すべきだ、と考えていた。しかし実作においては彼の想像力は理論や法則をこえ、19世紀後半のフランス社会、とくに下層労働者の生活、群衆の姿、あるいは破壊的要素としての性衝動などをみごとに描き出している。


 ◆エミール・ゾラ 略年譜
一八四〇年
     0歳
パリに生まれる。
一八四三年
     3歳
南フランスの町エクスに移る。
一八四七年
     7歳
父フランソワ没、一家は困窮状態に。
一八五二年
    12歳
ブルボン中等学校に寄宿生として入学。セザンヌとの交流が始まる。
一八五四年
    14歳
この頃からデュマやシューの新聞小説、ユゴーやミュッセなどロマン派の作家を耽読する。
一八五八年
    18歳
前年からパリに出ていた母を頼って、祖父とともにパリに居を構える。
一八五九年
    19歳
バカロレアに失敗し、学業を放棄。貧しく不安定なボヘミアン生活を送りながら読書と詩作にはげむ。
一八六一年
    21歳
パリに出て来たセザンヌと再会。サロン展やアトリエを訪れるうちに、若い画家たちと知り合う。
一八六二年
    22歳
アシェット書店広報部に就職。テーヌ、リトレなどの作家と交流する。
一八六四年
    24歳
短篇集『ニノンへのコント』。
一八六五年
    25歳
処女長篇『クロードの告白』。バルザック、テーヌ、ゴンクール兄弟の作品を熟読。活発なジャーナリズムへの寄稿が始まる。
一八六六年
    26歳
一月、アシェット書店を退職。アレクサンドリーヌ・ムレとの同棲生活始まる。五月、エドゥアール・マネの知遇を得る。
一八六八年
    28歳
『一家族の歴史』(全十巻)の構想。
一八六九年
    29歳
『ルーゴン=マッカール叢書』のプランをラクロワ書店に提出、受理。
一八七〇年
    30歳
五月、アレクサンドリーヌと結婚。九月、普仏戦争勃発に伴いマルセイユに移住、さらにボルドーに向かう。
一八七一年
    31歳
議会通信を新聞に連載、政界を批判。三月、パリに戻る。十月、『ルーゴン家の繁栄』。
一八七二年
    32歳
七月、ラクロワ書店が倒産、シャルパンチエ社と出版契約を結ぶ。フロベール、ドーデ、モーパッサン、ツルゲーネフらとの親交が始まる。
一八七四年
    34歳
マラルメとの交流が始まる。
一八七七年
    37歳
一月、『居酒屋』。激しい毀誉褒貶にさらされながらベストセラーとなり、生活は経済的に安定する。五月〜十月、南仏レスタックで休暇。
一八七八年
    38歳
五月、パリの西郊メダンに別荘を買う。これ以降、年に数カ月はメダンで過ごし、必要に応じてパリに出る。ユイスマンス、セアール、ブールジェ、ヴァレスら若い作家たちとの親交が深まる。
一八七九年
    39歳
一月、小説を翻案した戯曲『居酒屋』がアンビギュ座で上演され大成功。地方や外国でもやはり大きな成功を得た。友人たちがしばしばメダンを訪れる。
一八八〇年
    40歳
五月、フロベール死去。十月、『実験小説論』。
一八八一年
    41歳
過労のせいか健康状態すぐれず。
一八八二年
    42歳
四月、『ごった煮』。作中人物の名前にからんで民事裁判となり、作家の表現の自由をめぐって論争が巻きおこる。
一八八三年
    43歳
フーリエ、プルードン、マルクスら社会主義者の著作を読む。
一八八四年
    44歳
二月下旬から三月初めにかけて、『ジェルミナール』の準備のため北フランスの炭坑町アンザンを訪れる。
一八八五年
    45歳
三月、『ジェルミナール』。十月、『ジェルミナール』の戯曲への翻案が禁止され、『フィガロ』紙で激しく抗議。
一八八七年
    47歳
『大地』。この作品を機に反自然主義の傾向が鮮明になる。
一八八八年
    48歳
七月、レジオン・ドヌール・シュヴァリエ章受章。八月、ジャーナリスト・ビヨーから写真の手ほどきを受ける。十二月、女中ジャンヌ・ロズロとの関係が生じる。
一八八九年
    49歳
三月、鉄道小説準備のため、ル・アーヴル、ルーアンを訪れ、パリのサン=ラザール駅を見学。五月、アカデミー・フランセーズに立候補するが落選。以後一八九七年までしばしば立候補するがいずれも落選。五〜十一月、パリ万博を数度にわたって見物。九月、ジャンヌとの間に長女ドゥニーズ誕生。
一八九一年
    51歳
四月、文芸家協会長に選出される(〜一八九四年)。また、戦争小説準備のためシャンパーニュ地方およびスダンに旅行。九月、ジャンヌとの間に長男ジャック誕生。
一八九二年
    52歳
八月、妻アレクサンドリーヌ、ゾラとジャンヌの関係に気づく。八〜九月、南仏からイタリアに旅行。その途中ルルドに立ち寄る。
一八九三年
    53歳
『パスカル博士』。『ルーゴン=マッカール叢書』全二十巻が完成。
一八九五年
    55歳
四月、文芸家協会長に再び選出される。夏、ジャンヌと二人の子供のためにヴェルヌイユに家を借りる。
一八九七年
    57歳
十月、ドレフュスの無実を確信、暮れからドレフュス擁護の記事を発表。
一八九八年
    58歳
一月、『オーロール』紙に「私は告発する!」を発表。パリ重罪裁判所で懲役一年、罰金三千フラン。七月、ヴェルサイユ地裁でも有罪となり、ロンドンに亡命。
一八九九年
    59歳
六月、イギリスから帰国。十月、『豊饒』。
一九〇二年
    62歳
九月、一酸化中毒により急死。暗殺の疑いがある。
一九〇八年遺骸がパンテオンに移される。

(作成:小倉孝誠)