2010年06月01日

『機』2010年6月号:一億ドルのピカソ絵画とは? 瀬木慎一

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驚異的な高値
 ご存知の読者には再告することになろうが、間もなく藤原書店から出版される『国際/日本 美術市場総観』という分厚い一冊の記録・分析集の仕上げに、今、私は没頭している。そのさなか、国際美術市場に思いもよらぬ異変が生じた。実を言うと、二〇一〇年二月三日、ロンドンのサザビーズでジャコメッティの彫刻「歩く男性I」が五八〇〇万ポンド=九四三二万ドルで落札される一件があったのだが、これを一種の偶発のように受け取ってから、わずか三カ月後の五月四日、今度はニューヨークのクリスティーズで、ピカソの絵画「裸婦、観葉植物と胸像」に予想を超える九五〇〇万ドルという価格が飛び出して、史上最高価格が続けて更新された。これに手数料を加えるならば、一億六四八万二、五〇〇ドル(一〇〇億七、六四四万円)となる。
 この驚異的な出来事は無視するわけにはいかず、取り急いで、高額作品ランキングを修正せざるをえない事態となったわけであるが、さて、これが何を意味し、今後に何を示唆するかは極めて重要な問題であると率直に受けとめて、美術市場がどんなものであるかを改めて考えてみたい。


絵画の価値と投資
 さてここで、読者に向かって私のほうから一つの質問をしてみたいと思う。一点一億円の絵画というものの価値をどのようにお思いだろうか。世間では「絵に描いた餅」と言うように、それは一つの画像である。それには紙、布、キャンヴァスなどの材料と何らかの絵具が必要だが、大した値段のものではない。大きさは油彩画であれば号数で表し、一号は葉書よりやや大きいくらいで、大作とされる一〇〇号にしても、一六〇×一三〇センチメートル程度である。知名でない人の絵であれば数十万円かもしれないが、今度のピカソの場合は、何と一〇〇億円を超えたのである。ある実業家の会合で絵画の大きさの話をしたところ、土地一坪より小さくて、何千万円どころか、何十億もするのはけしからんし、馬鹿馬鹿しいと一人の不動産業者が力んだ。確かに一坪は三・三平方メートルである。
 絵画を面積で論じられたら応えようがなく、音楽、文学、演劇にしても、すべての芸術は物量では計られず、それ自身の価値基準で扱われなければならない。それを理解できない、あるいは受け入れない人々には、ことごとく無用の長物となってしまうが、改めて考えてみるに、芸術は芸術家とその関係者によってのみ、評価されているわけではない。それどころか、それ以外の人々によって、特に価格が総じて高い美術品においては、美術館を別にして、実際の売買をおこなっているのは、専門商以外はほとんどすべて経済人なのである。一坪もしない絵が何千万円も何十億円もするのは何事だ、と憤慨した人の同業者も、実はその多数が美術品の収集もしくは投資家なのである。美術市場に出入りしている人々には、あらゆる経済人が含まれている、と考えて間違いではない。たとえば、わが日本では、古美術最大の収集家と言われた益田孝(鈍翁)は三井財閥の最高経営者だったし、世界最高と見なされたジョン・ピアモント・モーガンは世界の金融界を主導したモーガン商会の設立者だった。

美術市場の成立
 このように経済人の多数が売買に関わり、その個別的価格も総じて高く、その上位にあるものは不動産以上であり、動産では高額の代表であるダイヤモンドをもしばしば超えることのある美術品、特に絵画という本質的に非物質であるものの価値が、これほどまでに上昇し、恒常的になったのは、歴史的にはルネッサンス以降のことであり、とりわけ十七世紀に活発化する株取引と国際貿易に連動しているように私には見える。
 絵画にはもともと相当な価値があったのだが、特定の注文主によって制作され、一カ所に安置、固定するものから、形態的に移動しやすい額縁絵画が中心となり、多数の人々によって様々な機会に鑑賞される状態になると、需要が広がり、価値が高まるのは必然だった。その流通的性質からして、資本主義の発展にともなうもっとも有力な文化商品としての要素が増大したと考えられる。
 もちろん、それ以外にも、建物や環境の建設と整備から生じる生活的需要も大きくなるばかりであり、その種の実用を満たす機能からも、美術品に他の商品と同様の市場がおのずから成立する。それは十八世紀末から十九世紀にかけてであり、画期的に飛躍したのは、何と言っても新大陸アメリカの経済発展を機にしている。日本の場合にも、美術市場が広範に形成されるのは、町人の経済的地位が寺社、公家、武家から推移、向上する江戸時代の元禄期以降だった。

ロンドンからパリへ
 このような歴史的な経緯は別の機会に詳説することとして、ヨーロッパ、アメリカの近代社会において、美術市場が経済市場の一端を担い、たとえ巨大産業の生産物とは比較にならないとしても、それぞれの国、地域にかならず付随し、資産形成並びに投資活動と連動しながら、それ独自の価値体系を以て活動してきたことの歴史的な基盤はここにある。
 その最大のものは、古くは、イタリアと北ヨーロッパの諸都市にあったが、産業革命以来、あらゆる商品取引の中心を成すロンドンに集中する。そして十九世紀末以降は、新たな有力美術作家が続出するパリの地位が目ざましく向上して、二大センターがめざましく競合する国際的状況となった。選択眼のある専門美術商が力を増し、販売網の大きいオークション・セールが発展したのも、二十世紀前半までのこの二つの都市においてだった。

ニューヨークとロンドン
 この間、早くもある見逃せない変化が派生していた。それは第一次世界大戦にロシア革命が重なった変動期であり、東・中部ヨーロッパの人々が西方へ、そしてアメリカへと大移動を開始し、それが第二次世界大戦に及んで、西ヨーロッパからさらにアメリカへと大量化する次の動乱期であり、その結果、世界経済の比重が史上最大となるアメリカへと美術品取引の場もおのずから移動する。その現れとして、各センターのシェアもかつてない変化を示すこととなって、一九七〇年代を一大転換点として、順位がニューヨーク、ロンドン、パリと変化したばかりか、強力な後継者が減少したパリがいちじるしく後退し、二つの都市が呼応する形で、国際市場の七五%前後を制覇する集中状況に到達する。そしてその時々の景況を反映して多少の増減を示しつつも、そのシェアを維持して現在に至っている。

最近の市場規模
 さて、この手短な考察のまとめとして言えるのは、次のことである。美術品はその規模ではもちろん、他の生産物や大量消費品とは比較にならない。とはいえ、全世界で三〇〇―四〇〇億ドルの年間取引高をもっている。そのなかの相当な部分が国家、公共施設、美術館、公益財団などの長期コレクションに組み込まれていくが、絶えず循環し、また新たに供給されるものがあって、けっして止むことのない市場である。そこで扱われる作品の価値には、当然、将来の増減が不可避であるにしても、積年のデータと最新の比較検討に基づいて人々が下す判断には、主観は別にして、何らかの根拠が無いはずはない。その最高の表示が、冒頭で取り上げたピカソの一億ドルを超えた一点の絵画に他ならなかった。

(せぎ・しんいち/美術評論家)