2002年09月01日

『機』2002年9月号:「世界化」(モンディアリザシオン)はグローバリゼーションではない ロベール・ボワイエ

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各社会経済の多様性を無視するグローバリズムの虚妄を徹底的に暴く!

ロベール・ボワイエ
(Robert Boyer/仏数理経済計画予測研究所教授)

アメリカ・モデルに収斂?
 バブルの崩壊以来、日本の経済と社会はさまざまな変容を経験している。その結果、この変革の当事者や市民たちは、日本はどんな社会編成へと向かっているのかと自問している。論争では繰り返し、そしてほとんど決まって、二つの陣営が対立しているように見える。一方で、日本の例外性はいつまでも続くと信奉する人びとは、それほど高くはないが安定した成長経路を取り戻すためには、部分的な改革で十分だと考えている。他方で、各種の専門家や当局者たちは、国際化の現段階からすれば、アメリカ・モデルに倣った金融市場をそなえた経済にふさわしい諸制度を――全部とはいわないまでも――多々採用する必要があると考えている。
 本書『脱グローバリズム宣言』に結集した著者たちは、日本に開かれた選択肢について、もっと豊富でバランスのとれた見解を提起している。というのも第一に、ヨーロッパ人が参加することによって、日本にとっての戦略的な選択肢を明らかにするという点で有益なもう一つの参照基準が示されるからである。日本の世論は、フィンランド、スウェーデン、さらにはデンマークの経済がITの生産および/あるいは利用において最先端を切っているということや、これらの経済が高水準の社会的統合や社会的連帯を維持しつつ、同時に失業を克服し成長を回復することができたということを、本当に知っているのだろうか。日本の当局者たちは、もう少し頻繁にヨーロッパの側から眺めてみた方がよいのではないか。ヨーロッパは――市場の論理をはるかに超える――稠密な社会的相互作用があるという点で長い伝統をもっているが、これは日本のいくつかの特徴を想起させずにはおかない。
 本書の第二の強みは、さまざまに異なった分野や国の出身者を集めていることである。研究者、企業の最高幹部、政治的責任者が、ある共通の問題――すなわち、自分たちの日常の実践に照らして、は諸戦略の均質化とアメリカ・モデルへの収斂をもたらすか――について討論し解明しようというのは、つまるところ、かなり稀なことである。
 この問題への本書の答えは、ほぼ全員一致できわめて否定的である。各人は本書に一貫する統合的なテーマを考慮しつつ、独自な論拠を展開する。つまり、はいくつかの制度や組織を無効にするが、同時に資本主義や企業経営モデルの多様性を刷新する、というテーマである。だから、戦後的成長の黄金時代と現代とをマスコミがやっているように根本的に対立させるのは正しくない。つまり、黄金時代にあっては、各国は多分に自国を中心に据えた成長モデルに従って、特殊な組織諸形態を発展させる余裕があった。その結果ごくふつうに、日本の例外性、フランスの奇跡、ドイツの特殊性、等々が並列されるまでになった。これと反対に、一九八〇年代半ば以降の開放経済の時代にあっては、競争と国際化の諸力が社会の隅々にまで浸透し、その結果、経済諸主体のみならず政治関係者の自律性の余地はほとんど完全に消滅することになろう。経済諸主体も政治関係者も、アメリカ的な制度や組織形態を採用せざるをえなくなるだろうというわけである。したがって、グローバリゼーションがもたらす効率性の代償として、金融ロジックの遍在に支配された標準的モデルへと収斂するのだという次第である。
 本書は、こうしたよく見かける――表面的できわめて間違った――ヴィジョンに対する解毒剤として読んでほしい。この点にかんして、本書は一連の議論を提供するが、それに対して日本の読者はいつまでも無関心であることはできないであろう。以下の七つの命題の形にこれを要約することができる。


「世界化(モンディアリザシオン)」とグローバリゼーション
 グローバリゼーションという用語はアメリカ的なものに由来しているが、フランス語やおそらく日本語など多くの言語で、そのまま採用されてきた。この用語はもともと経営学の文献を起源とするものであり、多国籍企業が世界中いたるところで同じ製品を販売でき、国際的規模で価値の流通を組織できるという事実を説明するものであった。多国籍企業は、自らの販売経路、工場や生産現場、資金調達、研究、そして企業幹部の採用さえも世界中に配分するというわけである。そこから拡大解釈して、アナリストのなかには、トランスナショナル〔超国籍的〕なものからグローバルなものになった大企業の優位性を結論づける者もいた。大企業の権力たるや強大で、各国政府は結果的に財政政策、労働法、社会保障、金融制度をこれに適合させねばならないほどであったのである。
 だが、長期的な歴史研究によれば、このプロセスにはグローバリゼーションの語を引き合いに出すほど絶対的に新しいものがあるわけでなく、とりわけ交易・観念・生産の国際化のプロセスの起源は一六世紀以降にある。世界経済についてのフェルナン・ブローデルやイマニュエル・ウォーラーステインの仕事が思い起こされるべきである。こうした相互依存の高まりにもかかわらず、諸空間、諸空間、そしてやや遅れて諸空間は、それらが遠隔地貿易や金融の動きに接合されたなかにあっても、自律性を保っていた。およそ国際化の新たな発展は国内組織の不安定化となって現れるが、だからといって各領域内で組織されている連帯の終わりを告げるものではないのである。こうした理由から、本書のタイトル〔原書の主タイトルは Mondialisation et r€馮ulations〕は、グローバリゼーション(globalisation)と区別し対立させて、世界化(mondialisation)という語を使っている。両者は同義語ではないのである。

アメリカ的調整様式は特殊である
 この本の第二の主要なテーマは、アメリカ資本主義の諸制度の普遍性なるものを相対化することにある。実際、アメリカを特徴づけるのはこの社会の若さだということが想起されるべきである。アメリカ社会はヨーロッパ的伝統からの切断として樹立されたのであり、ヨーロッパ的伝統は個人の主張や商品関係の発展を阻止するものと見なされた。アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)はアメリカ合衆国の社会的政治的形成に何の影響力も持たなかったので、まさにこの国においてこそ、最も純粋な資本主義のロジックが見出される。たしかにオーストラリアやニュージーランドといった国でも、こうした同じ特性が認められるかもしれない。しかし、アメリカのは、この国が第二次世界大戦以来、国際諸関係を組織化していく中心に位置しているということ、ならびに、この点でアメリカは自国の諸制度を投影し輸出する力――近代史でこうした力をもった類例はほとんどない――をもっているということにある。
 そこからあるパラドクスが生ずるのであり、これは今日の研究で十分に強調されていない点である。すなわち、アメリカ的軌道という極端に特別なものが、近代的なもの――市場と民主主義の結合を意味する――に近づこうと願っている諸国にとって確実に参照基準になってしまうのである。だがしかし、アメリカ以外のほとんどの地域では歴史が重みをもっているという事実を考慮するならば、資本主義的諸関係は依然として、それに先行する社会的諸関係からの遺産によって刻印されているのである。その結果、アメリカ資本主義の極端な性格との関係のなかで、他の社会は第二次世界大戦以降、吸収や適合のプロセスを発展させ、また多くの場合、ハイブリッド化――つまり、アメリカ由来の諸原理と各地域固有の独自な社会的紐帯との合成――のプロセスを発展させた。こうしたプロセスがこの二一世紀にまで延長されていること、またその結果、ある多様性が刷新されていることは大いにありうる話である。その多様性は、栄光の三〇年〔フォーディズム〕の時代、フランスの奇跡、ドイツ・モデル、スウェーデン・モデル、そして最近では日本モデルの独自性を強調することになった多様性とよく似ていよう。(中略)

モデルの理想化に警戒せよ
 グローバリゼーションにかんする言説の権力は、一部は、近代的な通信手段――とりわけ世界的なウェブを想起すればよい――によって、情報のほとんど瞬間的な伝達が可能となったという事実と関係している。というわけで、すでに二〇年も前にはやった表現を借りれば、村(!)が生まれたと結論づけたがるのも無理からぬことだ。しかし、本書の著者たちが教えているのは、かれらの活動はますます国際諸関係のうちに組みこまれているにもかかわらず、かれらの行動はきわめて異なった社会政治的文脈のうちに位置づけられているということである。こうした制度的相違は波及効果によって企業組織のアーキテクチャに影響を及ぼし、その結果として、企業は自らの強さも弱さも同時に作り上げていく。フランスのある多国籍大企業のいくつかの事業部門にあっては、北米よりもヨーロッパでの方が業績も技術も高いというのは、注目すべきことでないか。あるいはまた、この一〇年来、ジャストインタイムや総合的品質管理を移植しようとして他国の企業経営者が努力を続けてきたにもかかわらず、自動車部門において日本のメーカーは、品質‐価格関係の面で依然として優位を保っている。多数の模倣者が現れたにもかかわらず、その優位は浸食されなかったのである。
 これにかんして本書のほとんどの論文に共通するテーマが存在する。グローバリゼーションや「ワン・ベスト・ウェイ」なるものに偏執狂的に依拠することは、現代の社会や経済の多様性をもっと重視する理論を構築するのに障害となりうるということである。この点で興味深いのは、アメリカ的、日本的、フランス的といった、いわゆる例外性をご破算にしうる分析枠組みをそれぞれ提起しているのは、青木昌彦教授および藤本隆宏教授という、二人の日本人著者だということである。事実、右のような特殊例外性は、企業の組織諸形態や国民的な経済諸制度にかんする一般的な類型学のうちに組み込まれうるのである。そうした組込みによって、企業にとっては競争力の源泉が、経済にとっては社会的紐帯の編成の源泉が複数あるのだということを位置づけなおすことができる。これは、ヨーロッパ人やアジア人にとって、社会科学における分析を発展させるための誘いである。つまり、これによって、例外性という安易きわまる観念に頼るのを拒否しつつ、自分たちの歴史的軌道を一般理論のうちに位置づけなおすことができるのである。(略)
(山田鋭夫訳)