2011年12月01日

『機』2011年12月号:「民衆」の発見 大野一道

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フランス革命以降の六人の思想家
 本書(『「民衆」の発見』)は、キリスト教の力がしだいに弱まっていったフランス革命以降の近代フランスにあって、つねに「民衆」を問題にしながら、人類が連帯を保って生きてゆくための新しい原理(ないし教理)をどこに求めるべきか、いや宗教にも代わりうるそうした原理(ないし教理)がそもそもありうるのかといった、さらに根源的な問題をも模索した、広い意味での文学者たち六人(ミシュレ、キネ、ラマルチーヌ、ルルー、ラムネー、ペギー)の思想を探ったものである。「広い意味での文学者」としたのは、これらの人々のうち、純粋に文学者と目されるのは、詩人として盛名をはせたラマルチーヌとペギーぐらいのもので、ミシュレとキネは歴史家、ルルーは社会思想家、ラムネーは宗教家として一般には知られているからである。


全生命の一体性
 ところでミシュレを研究するうち筆者が興味を覚えたのは、彼が自然に関し、われわれがもっているような東洋的感性とでも言えそうなものとともに、思索しているという点だった。ルルーのように「全人類は一つ」という文言こそ使わなかったが、「全生命は一つ」といった見方さえ、ミシュレはしていたのではないかと思える。
 そこで、ここでは彼の『十九世紀史』(邦訳、ミシュレ『フランス史VI 19世紀――ナポレオンの世紀』藤原書店)の一節を紹介して、そうした思考の一端を理解しておきたい。自然科学における十九世紀の研究が、全生命の一体性を認識しだしたと述べているところである。


「世界は皆同じ源から生じているということ、あらゆる存在は一つであるということ、これが新しい教理である。しかしそれを感じるためには、二つのことが必要であった。まずこの世紀を通して徐々に広がり、自然によってようやく動かされた、思いやりの心。そして(…)自尊心の放棄であり、そのおかげで人々は、(…)最も小さなものさえも親族として認識することができたのである」。


 そしてこうした世界観をもたらしたジョフロワ・サン=ティレールについて、次のように述べる。


「彼はすべての有機体の中に、見せかけの相違がそこで消え去り、類似が生じ、互いの統一が行なわれるような点を見出した。このようにしてすべてが、(…)やがて自分たちが兄弟であることに気づく。驕る心よ、さらば。最もとるに足りない動物でさえも、人間のいとこ、あるいは先祖なのだ」。
(訳はボアグリオ治子による)

 あらゆるものに仏性がある、「一寸の虫にも五分の魂」と言いならわしている日本人からすると、特に驚くことのない一節かもしれない。しかし西洋的世界観からすると、これは仰天すべきものの見方だ。西洋の世界観の根底をなしているキリスト教の見方は、実際に読んでいただくのが分かりやすいだろうから、『聖書』を引用して眺めてみよう。
 『旧約聖書』冒頭の『創世記』の、その冒頭には次のようにある。


(神はその御業として、光を創り、空と地を分け、海を創り、地に草を生えさせ、天に星を創り、鳥や魚や獣を創ったあと)「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』 神は御自分にかたどって人を創造された。(…)男と女を創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這う生き物すべてを支配せよ。』」 (新共同訳による)


 さらには、人間の中でも、とりわけユダヤ人を神は愛でたという話は、『旧約聖書』のいたるところに出てくる。つまりユダヤ・キリスト教的世界観にあっては、常に特権的な存在がありつづけるのだ。万物の中では人間が、人間の中ではユダヤ人が、神によって特に選ばれた存在、エリート、選良でありつづける。
 これがヨーロッパ的な世界観の根幹を成しているように感じられる。それゆえ神に選ばれたものが、他のもの(人間、人間以外の生命体の別なく)をすべからく支配するのが当然といった見方が生じたのだろう。ヒエラルキー型の社会システムが必然的に到来するゆえんである。もっともイエス・キリストは、そのようなユダヤ教を全人類に普遍する世界的宗教へ、愛の信仰へと変貌させたのだとも言えようが、長い歴史の中で、キリスト教の実態は、つねに先祖がえりするかのごとく、自らを特権化する方向へと行ってしまったのである。そういうことへの反発、批判の一例がたとえばペギーであり、ラムネーである。

“フランス的革命精神”
 こうした西洋的世界観が、何らかの特権者が特権を振るうことを当然視する社会を支え続けたのではないか。上に引用したミシュレの文章の中に、「自尊心の放棄」とか「驕る心よ、さらば」とあるのは、こういった特権意識に呪縛された西洋人への自戒の言葉に他なるまい。フランス革命以降はじめて、ヨーロッパ世界にも、キリスト教的世界観の偏狭な人間中心主義を脱して、キリスト教を超えた別種の世界観を見出してゆくような徴候が見えてきたのではないか。そして初めて真の意味での他者――優越的視線で見下す対象とはならない他者という意味だが――を知ることができるようになったのではないか。こうした変化こそフランス革命によって生み出されたものであり、それ以降のヨーロッパ社会を陰に陽に動かしていった、いうなれば「フランス的革命精神」とも言えるようなものの働きだったと思える。本書でとりあげたひとびと、とりわけミシュレの中に筆者はそうした精神の代表を見る思いがする。
 つまり冒頭で述べた、従来のキリスト教的世界観に代わりうるような新しい原理なり未来を見すえた教理なりを、ミシュレ(ら)は生命への畏敬の心、全生命の一体性の確認といったことの中に見出そうとしたということなのだ。地球も一つの生命体だとしたら、間違いなく宇宙全体も生きた存在となるに違いない。偉大なる宇宙への、荘厳なる宇宙への畏怖(いや宇宙と呼ぶより、古来東洋で言われてきた「天」と呼ぶ方がふさわしいかもしれぬが)、そういったものを感知する時、新しい信仰ないし宗教に近いものが生まれうるのではないか。宇宙の外側に、なぜ人間と同じ姿をした絶対神が必要なのか。ペギーからミシュレへの筆者の歩みは、畢竟、そうした疑問への解をもとめての彷徨だったように思う。
 そしていま改めて地球の現在を眺めてみると、二十一世紀の今日、相変わらず強者による弱者の収奪があり、宗教間の対立があり、人間による自然の収奪があることに気づく。
 自然の収奪の最たるものは、恐らく今日の日本で起きている原子力発電所の大事故にほかなるまい。なぜならば原子力の利用とは、自然界には存在しない物質を人間の力で作り出してゆく工程だからである。皮肉な言い方をすれば、ホモ・ファベル(工作するものとしての人間)を象徴する最高の行為だからである。人間が自然の上に立って自然を作り変えるのではなく、自然とのかかわりにはつねに節度が必要なのだ。その節度を忘れる時、大いなるしっぺ返しを受けることになるだろう。これが今日の原発事故の本質と思われる。元来自然界に存在しているものを、単に組み合わせや配列を変えることで新しいものへと作り直し、適度に使用しているかぎり、ホモ・ファベルは自然への畏敬を忘れたことにはなるまい。しかし、それまで自然界に存在していなかったものを、巨大なエネルギーとともに新たに創造するようになったとき、つまりみずからを造物主と同等の力ありとしてしまったとき、人間の傲慢は度を越してしまったのではないか。西洋的近代文明を謳歌しながら、地球はいま傲慢不遜な人間たちであふれかえっているように見える。
 そうした今日的動向を乗り越えるには何が必要か。なによりもわれわれ自身の意識改革が、世界観や価値観の見直しが求められるだろう。そうした課題に答える上で、西洋世界のただ中にあって、それぞれの形で伝統的考え方や物の見方を超越しようとした、これら本書で取り上げた人々の思索が、なんらかのヒントとなることを筆者は信じている。(構成・編集部)


(おおの・かずみち/中央大学教授)