2011年11月01日

『機』2011年11月号:竹内浩三という存在とは? 編集部

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竹内浩三とは
ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や
(「骨のうたう」より)


 詩「骨のうたう」は召集を前にした一人の学生の詩であるが、こんな言葉もある。「故国の人のよそよそしさや/自分の事務や女のみだしなみが大切で」「なれど 骨はききたかった/絶大な愛情のひびきをききたかった」――この絶叫の言葉は、時代を超え、「自分の事務」に埋没しながら「絶大な愛情」を求める人間の心を激しく打つ。
 竹内浩三は一九二一年、三重県宇治山田市に生まれた。中学時代は仲間と手作りのまんが回覧雑誌を作る。曰く、「マンガをよろこばない人は子供の心を失ったあわれな人だ」。文章もアイデアも、そして絵も、抜群にうまかった。既製の雑誌を模した手書きの「奥付」までついたまんが雑誌は、人間のおかしみと悲しみとを、天性の明るさで見事に照らし出している。
 四〇年、映画監督をめざして日本大学専門部映画科に入学し、東京で生活する。四二年十月、召集を受け三重県久居町にて入営。四三年茨城県西筑波飛行場に転属し、兵営でも小さな手帳に「筑波日記1・2」を書き続ける。「ぼくは、ぼくの手で、戦争を、ぼくの戦争がかきたい」。四四年十二月、フィリピンに向かい、公報では「四五年四月九日、比島バギオ北方一〇五二高地にて戦死」

決定版の刊行
 『竹内浩三全作品集 日本が見えない』(全一巻)は、小社より二〇〇一年に刊行された。表題の「日本が見えない」は、編者の小林察氏がこの全作品集を作るため遺品整理をしている時に発見した、ドイツ語の教科書の表紙ウラに逆さまに書き込まれていた詩片のタイトルである。「この空気/この音/オレは日本に帰ってきた/帰ってきた/オレの日本に帰ってきた/でも/オレには日本が見えない」。
 『全作品集』は刊行されたが、その後も新しく遺稿が発見されつづけた。例えば、二〇〇三年一月には『培養土』という詩集アンソロジーの見返しや扉、白紙ページに記された、出征前の悲痛な思いの迫る詩篇群(『環』一二号掲載)。また二〇〇五年七月には、姉宛の最後の手紙や短篇「ある老人の独白」など(『環』二二号掲載)である。
 これらの新発見の原稿もすべて含めた〈決定版〉が、来春、刊行予定である。

どう読まれてきたか
 浩三は、「ウワハハハハと笑い出したら最後、もうしばらくは笑いが止まらぬという男」と同級生は書き残している。
 「ほかに比べるもののない、心の奥底からの弾みがあり」(吉増剛造氏)「竹内浩三は弱さが忌避される時代に、それを書き続けた人物だった」(稲泉連氏)等々。二十三歳で戦場で露と消えた一兵士が、今を生きる多くの若者たちにも、生きる勇気と希望を与えつづけているのは何故だろう? こんな思いで本当に最後の〈決定版〉を製作中である。


(記・編集部)