2011年11月01日

『機』2011年11月号:帝国日本初の植民地・沖縄と「旧慣調査」 1872-1908 平良勝保

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琉球の近代日本への併合
 本書(『近代日本最初の「植民地」沖縄と旧慣調査 1872-1908』)は、一八七二(明治五)年の琉球藩王の冊封から一八七九(明治十二)年の沖縄県設置(琉球国の併合)を経て、沖縄県島嶼町村制が施行される一九〇八(明治四十一)年までが対象の中心となっている。沖縄は、一六〇九年薩摩藩の侵攻によって、国王が薩摩に連行され王国崩壊の危機に瀕したが、王国内の自立性回復努力によって明・清との朝貢関係も継続され、明治政府による琉球国の併合までは国家的機能を維持してきた。しかし、アヘン戦争を起点とするヨーロッパ勢力の軍事力を伴った東アジア進出以後、伝統的な東アジアの国際秩序が動揺し、崩壊・再編されていく過程で、琉球/沖縄は、「万国公法」の論理に呑み込まれ、「ミカドの国」の一部にされていった。
 沖縄県の設置(琉球国の併合)以後、沖縄が明治国家体制に組みこまれていく過程は、他県とはおおきく変わっていた。その大きな特徴として、いわゆる「旧慣温存」がなされ、沖縄固有の社会が維持されることになったことをあげることができる。すなわち、近代日本とは異なった「法域」が設定されたのである。沖縄における日本近代法の受容過程は、他府県と大きく違い、それはあたかも植民地のごとき様相に彩られていた。


旧慣/内法とは何か
 本書のメインテーマは、旧慣/内法の調査の研究である。「内法」とは、単純化していえば、日本の法体系とは別の間切(現在の市町村に相当)や村レベルの民衆生活の基を律する法といってよい。
 「旧慣」という用語は、近代沖縄のなかで生まれたのではなく、近代日本の法制のなかで生まれた。一八六八(明治元)年八月の太政官布告、明治十年司法省刊行の『民事慣例類集』の凡例でも、「旧慣」の用語が見える。
 沖縄近代史研究においては、「旧慣温存論争」といわれる安良城盛昭と西里喜行との間で論争が起きたことはよく知られているところである。この論争は、単純化していえば経済的得失に重点が置かれた論争であったが、十分な結着をみないまま、その後旧慣温存期に関しては、長く研究の焦点があてられることはなかった。
 沖縄県の「旧慣」については、税制のみならず「諸法度」すべて、すなわち統治システムそのものが旧慣のままとされた。このことから、「『旧慣』とは旧来の農民統治・収取体系の総称」と理解されている(『沖縄県史』第二巻)。
 旧慣温存期の沖縄においては、日本の法体系とは違う「旧慣」や「内法」が社会を律していた。本書では、「近代琉球(琉球藩期)」と「旧慣期」前後の時期を射程に、経済的得失とは異なった観点からこの時期を理解し、民衆世界にせまる作業として、明治政府=沖縄県による旧慣調査と内法の成文化過程とその展開について検討した。
 著者は本書執筆にあたって、民衆世界に史(資)料を駆使して迫りたいと考えた。史(資)料渉猟の過程で、従来の研究史においては旧慣調査資料の発掘が不十分であり、内法についても史料批判がまったくなされていないことに気がついた。また、史(資)料を読み解くなかで、琉球/沖縄を歴史の主体として読み解かないと歴史の本質が見えないことを思い知らされた。
 本書の研究史的意義は、第一に、琉球/沖縄を歴史の主体として近代沖縄をとらえなおし、旧慣・内法調査を帝国日本の東アジア侵略とからめて考察したこと、第二に、従来の歴史研究において史料批判を抜きに安易に内法史料が利用されてきたことに対し、内法成立の過程を解明し、従来の内法観を一新したことにある。それは、琉球/沖縄史のみならず、法社会学・法制史研究にも新たな視点を提供したのではないかと思っている。(後略 構成・編集部)

(たいら・かつやす/琉球歴史研究家)