2011年10月01日

『機』2011年10月号:内藤湖南への旅 粕谷一希

前号   次号


ジャーナリストから支那学の泰斗へ
 なぜ内藤湖南(一八六六―一九三四)を書いたのか、と問われることがある。
 一般的にいえば、まず、中国認識をめぐる津田左右吉との対比があろう。中国文化に対する日本文化の独自性を指摘した津田左右吉に対して、湖南は日本文化の形成にとって中国文化は豆腐の”ニガリ”のようなものだとした。「中国とは何か」という問いは「日本とは何か」という問いと表裏のものとして、明治以後の知識人に突きつけられてきた。この問いは、現代の我々にとっても避けて通れないものである。
 また、漱石が学者から文士になったことは有名だが、同時期に文士(ジャーナリスト)から学者になった湖南のことはあまり語られない。露伴も一年間京大に来たが「こんな窮屈な世界は耐えられない」と東京に逃げてしまった。湖南のように生涯勤め上げたのはめずらしい。ジャーナリズムと学界との間の垣根が低く、ジャーナリストが歴史書をものするだけの骨太な歴史観を持っていた時代の知識人の姿を、湖南という存在から読みとることができる。
 最後に、『内藤湖南全集』が筑摩書房から出されたこと。私は同業者として、毎回、月給差し引きで割安本を買っていた。一〇年以上自分の書棚に置いて眺めていると、次第に書くことが義務のように想えてきた。
 幸い私は、筑摩書房の社長を務められた竹之内静雄氏に親しくしていただき、毎年正月にはお宅に伺って酒を呑まされた。議論酒の竹之内さんはいつも「東の田中美知太郎、西の吉川幸次郎」が口癖だった。戦時中の日本では、純粋の学問的思索を続けておられたのは、この二人だったろう。(…)その竹之内さんが、京大の支那学の泰斗として、事あるごとに口にしていたのが、内藤湖南の名前だった。


湖南のやさしさ、人間臭さ
 「内藤湖南への旅」は雑誌『東北学』に連載したものである。仙台にある「荒蝦夷」社の土方正志氏が『東北学』の編集に携わっていたので、ずっと気になっていた東北出身の湖南を書くとよいのではないか、と考えて話してみると、すぐさまOKがでた。書棚に置いてあった全集を繙きながら連載を書き進め、一二回で十分一冊の本をつくる分量になった。この間、湖南の郷宅のある十和田湖畔の南部の町にも一緒に出かけて楽しかった。
 停年後の湖南が郷里に帰らず京都郊外に書庫をつくったのも、湖南の父親が後妻をもらい、その後妻が連れ子だった娘を湖南に押しつけようとしたことが虎次郎(湖南)が逃げ出すきっかけとなったのだから、人生はわからない。とにかく旅行で私は湖南の生身を摑んだ。
 内藤湖南というと難しいという反応が多いが、生身の虎次郎はやさしく、人間臭い。
 京大で同僚の小島祐馬は、停年退官後、サッサと高知にある豪農の郷宅に戻って、本当に百姓をしていた。どちらも郷里の事情がわかると、どうということはない。二人とも自由な老後を選んだのである。
 湖南の『全集』は長男の乾吉氏が同学の道を選んだことが幸いした。湖南がメモ一枚で講義したものを、聴講生のノートを参照しながら乾吉氏が原稿にしたものである。湖南の癖をのみこんでいたから、『全集』の文章はもっとも始源に近いものであろう。
 湖南はアームチェア(肘かけ椅子)の学者であったが、京大山岳部に負けないフィールドワーカーでもあった。八回の支那旅行は原則として徒歩であり、現地の人々とは筆談でお互いの意味を了解した。幕末の高杉晋作も同様であった。
 ジャーナリストとして同時代の中国情勢を論じつつ、歴史家として古代以来の中国王朝の転変を描いた内藤湖南は、中国の将来をどう見通していたのか。それを見極めるために、湖南とその周辺を旅してみたい。

(かすや・かずき/ジャーナリスト)