2011年10月01日

『機』2011年10月号:現代文明の危機――3・11以後 A・ベルク+中村桂子+服部英二

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近代文明の折り返し点
【服部英二】 私は、この危機を「文明」という視点で考えなければいけないと思います。結局、直線的に進んでいく時間論で行きますと、「文明」はほんの一瞬でしかない。この一瞬ともいうべき時間帯に爆発的に地球が破壊され、壊滅状態になっていくのを見ると、必ず終末が来るであろうという、アポカリプスの予感がするんですね。
 ですから私は「パラダイム転換」ということを訴えています。文明はいま折り返し点に来ているのではないかということですね。それに目を開かせてくれたのが、あの三・一一であり、福島原発事故であったと私は思います。
 現在のこうした近代文明ですが、なぜ人類だけが他の生物や自然を搾取する、簒奪するものになってしまったかというと、これはベルクさんも何回も指摘しているように人間と自然との乖離――私はこれを「自然との離婚」と言っています――、それが、科学革命と言われる十七世紀に起こった。デカルトの『方法序説(Discours de la Méthode)』に書かれた「人間は自然の主人であり、所有者である」という言葉によって、自然というものが完全に対象化される。だから科学の研究の対象になり、その法則を知り、それに手を加え、組みかえていく作業をやって産業革命が起こるわけですけれども、その手続のところに「自然との離婚」があった。これが一番大きなことじゃないかと、僕は思うのです。


二元論的パラダイムの終焉
【オギュスタン・ベルク】 服部さんがおっしゃったように、我々は今この近代文明の終焉に直面していると言えると思います。三・一一の事件は、警告書のように現れていると思います。この文明一般のパラダイムを変えねばならないという義務に直面しています。そのパラダイムは何であるか、それにいつ現れたのかを、まず明らかにしなければなりませんね。これが現れたのは大体十七世紀で、それは、近代科学革命と直接に関連しております。このパラダイムは、近代科学を可能にした存在論的なパラダイムです。その基本になっているのは、やはり存在論です。
 その存在論は、デカルトの思想に代表されているんです。もちろんデカルトだけではないけれども、一応デカルトが一番明らかに近代二元論を表した人物ですね。その二元論――先ほど服部さんがおっしゃったように、人間と自然は「離婚」して、自然が対象化、客体化されたことはそのパラダイムの一面ですが――のもう一面は、近代的主体の出現です。両方は、同じ現象の表裏であり、関連しています。
 この近代的主体というものは、まず個人的な意識として現れます。本当に点としての個人的な意識であり、ほかのものは結局「他」になる。「自」に対して、ほかは全部「他」になったわけです。

「いのちの文明」への転換を
【中村桂子】 私は今まで日本の文化に魅力を感じ、また自分の日常はすべてそこにありながら、西洋でなく東洋へとか、日本とヨーロッパとを対置することをよしとしなかったんです。表面的に比べるのは嫌だと思って。
 ところが、理性だけで考えるところを超えようと思ううち、日本が持ってきたもの、これはベルクさんの言葉を使えば「風土」だし、私の言葉では日本の「自然」ということになるその意味がとても大きくなりました。日本の先人たちが自然とのかかわりの中でつくり上げてきた文化が重要になってきています。
 ここでいろいろな方の考えの中で伊藤益(筑波大学大学院教授)に多くを学びました。日本人は、ただ全体を見ているのでなく、主体と客体を分離しながら客体を自分の中に取り込み、一体化させるという文化を持っているという指摘です。主体と客体が一体化していくのが、「いのちの文明」なのではないかと、いま考え始めているところです。

(構成・編集部)
(Augustin Berque /仏・社会科学高等研究院教授)
(なかむら・けいこ/JT生命誌研究館館長)
(はっとり・えいじ/地球システム・倫理学会会長)