2011年09月01日

『機』2011年9月号:アラブ革命はなぜ起きたか 石崎晴己

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仏メディアのイスラーム恐怖症
 昨二〇一〇年一二月に失業中の青年が焼身自殺を図って死亡したことに端を発するチュニジアの反政府民衆蜂起は、二三年間強権政治を続けたベンアリ大統領の退陣・国外逃亡を一月足らずの間に実現した。このチュニジアの革命は、またたく間にエジプトを始め、アラブ世界全体に波及し、二月にはエジプトで、三〇年の長きにわたって君臨した独裁者、ムバラク大統領が辞任するに至った他、リビア、バーレーン、シリアなどでも民衆運動が激化した。
 この「アラブ革命」が勃発したとき、フランスのメディアの反応は、いかにもイスラーム恐怖症にとりつかれたものだった。ダニエル・シュネデルマンの「本書誕生の経緯」が巧みに活写しているように、フランスの記者たちは、革命の中にイスラーム聖職者やイスラーム主義者たちの影を探り出すことに熱中したのである。それも無駄に終わった。
 少なくともチュニジア、エジプト、そしてリビアの蜂起した民衆は、意外なほど「非宗教的」で、「世俗的」国民意識を表出しており、エジプトでは、国の二大宗教であるイスラームとコプト(キリスト教)の別を越えた国民的団結が謳われるというようなこともあったようである。
 しかしもちろん、このようなメディアの姿勢は、フランスだけに限るものではなく、アメリカも含めて、この動きのイスラーム化を警戒しつつ、その懸念を掻き立てて、あわよくばイスラーム主義の烙印を押そうとしていることに変わりはない。  このような状況の中で、エマニュエル・トッドが二〇〇七年に出した『文明の接近』が、新たに脚光を浴びている。その理由はもちろん、シュネデルマンが熱っぽく告白するように、本書がイスラーム恐怖症的プロパガンダを断固として告発しているからである。


人間の普遍性に対する確信
 実際トッドはインタビューの中で、『文明の接近』のことを、「市民的行為」と言っている。「学問的な本ですが、市民的な企てだった」と。私が行ったインタビューの中でも「闘争の書」と述べている。
 イスラーム教とはそれ自体が本質的に悪であり、本質的に近代性とは相容れず、イスラーム諸国は宿命的に近代化が不可能なのだ、とするイスラームの本質化ないし悪魔化(悪魔扱い)が、フランスを始めとする西洋諸国で蔓延していた風潮を、真っ向から批判する試みだったのである。
 その論拠はもちろん、トッドの専門分野である人口統計学のデータ(識字率と出生率)から浮かび上がってくるイスラーム諸国の現状であり、西洋自身の歴史への反省的眼差しであった。この過去への眼差しから着想されたものが「移行期危機」の概念である。
 イスラーム圏が移行期にあるということは、国によって差はあるにしても、全体として近代化の道を進みつつある、少なくとも近代化の直前にある、ということを意味する。同時に、現在近代性を代表することを自認する先進国も、かつては流血と殺戮の移行期危機を体験したのであり、見た目の暴力性に惑わされず、冷静な目でイスラーム圏を見なければならない。いずれ移行期が終わればイスラーム諸国も、鎮静化して、平穏な近代社会を築き上げるはずである。
 このようなトッドの寛容さは、人間の普遍性に対する確信から来るものと言えよう。周知の通り、トッドの著作家としてのデビューは、二十五歳の時に上梓した『最後の転落』であり、その中で近い将来におけるソ連邦の崩壊を予言した。彼はその予言の根拠をもっぱらソ連における幼児死亡率の極端な上昇から引き出したと言われている。
 今日イスラーム圏の住民に対しても、トッドは同じ態度で臨んでいる。何やら訳の分からない、理解を越えた不可思議な人間たちではなく、家族システムと歴史的状況は異なるとはいえ、幸福と安寧を求めて日々の生活を行う「普通の人々」、つまりは「普遍的な人々」である、と考えるのである。

(構成・編集部)
*全文は『アラブ革命はなぜ起きたか』に収録
(いしざき・はるみ/フランス文学)