2011年09月01日

『機』2011年9月号:日本の味わい ダニー・ラフェリエール

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夢の中の日本
 私の作品が日本語に翻訳され、日本人に、それもまさに日本において読まれるというのは、にわかには信じがたいことである。日本は私の夢の中にあまりに長いあいだ存在しつづけたために、いっときなど、それは自分が勝手に捏造したものだと思っていたほどなのだから。まだ実感が湧かない。日本は私の内部にあまりに強烈に棲みついているので、今度は自分がそこに住むことになるのに感動している。今この瞬間、私はひとりの日本人読者の手の中にいる。けれどもその読者は、私がその人のところに到着するために辿らなければならなかった道程については知らない。それはまさに、書くことと読むことという、ふたつの相互補完的な活動を賛美することでもある。
 モントリオールの、疲れを知らぬランプの下で、ひとりの男が物語を書き上げるのに熱中している。その物語はじつは、亡命という迷路から彼を抜け出させてくれる赤い糸なのだ。そして世界の反対側では、東京で、京都で、あるいは別の場所で、もうひとりの人がその年代記を読み解こうとしているのだが、その年代記は内面的すぎて謎めいてしまう。ではその道程とはどんなものだったのか? それは私の記憶のはるか彼方にまで遡るため、最初に「日本」という言葉と出会ったのがいつだったのか、思い出すこともできない。私が知っているのは、この言葉が私の好奇心をそそったということだ。果実の名前だとったのである。それは私が祖母と一緒に幼年期を過ごしたプチ= ゴアーヴの村でのことだった。当時の私はとても内気で、辞書にさえ説明を求めることができなかった。そのため、自分の口の中にひそかに日本をしまっておくことになったのである。

決定的な文学的影響力
 それと再会したのは十四歳ごろ、ひとりのおばが三島の小説を家に持ち帰ったときだった。自分の世界とはまったく異なるその世界に私の心はすっかり占領され、中毒を起こすほどだった。その後ポルトープランスで、ほかの作家たち、とりわけ谷崎を発見した。と同時に北斎の何枚かの版画も。魅惑はモントリオールでさらに増大した。そこでは、一九九〇年代末ごろ、日本料理店が急速に増えていたのである。それよりだいぶ前に、ある女友達の家で偶然芭蕉の俳句に出会っていて、彼はボルヘスとともに、私にとって、ふたつのもっとも決定的な文学的影響力となった。私は芭蕉の簡素な文体にいたく感動し、日本人になりたくなって、その経緯を簡潔にあらわした題名のついた本『吾輩は日本作家である』を書いた。それも、日本を知らずに、である。私が日本を知ったのはその詩人たち(一茶、芭蕉、蕪村、子規)の言葉を通してであり、だからこそ、私の本が自分に先んじて日本に登場することに喜びを禁じえないのだろう。さあ、私は書く。そしてあなたが私の本を気に入ってくれれば、そのとき私は現れる。


(小倉和子訳/立教大学教授)
(『帰還の謎』所収「日本の読者へ」より)

■ハイチ共和国とは?
 カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島をドミニカ共和国と分け合う。一八〇四年に独立を果たした、初の黒人共和国。フランスから独立の承認を得るため旧入植者への損害賠償としてフランス政府に支払われた一億五千万フランは、既に莫大な金額であったが、サトウキビの価格が下落しなければいずれは返済できるはずだった。しかしその後ヨーロッパで甜菜糖が生産されるようになり、サトウキビの価格が下落。長期にわたって借金に苦しむ国家となる。


(小倉和子/立教大学教授)
(『帰還の謎』訳者解説より)

■Dany Laferrière(1953- )
 ハイチの首都ポルトープランス生れ。一九七六年に政治亡命を余儀なくされ、以後、主にカナダのケベック州モントリオールに在住。一九八五年に発表した『ニグロと疲れないでセックスをする方法』で話題をふりまき、フランス語圏文学の一翼を担うケベック文学を代表するハイチ系の作家としての地位を築いてきた。二〇〇九年に『帰還の謎』によってフランスのメディシス賞を受賞。 現代の多くの亡命作家に見られるように複数の文化圏を横断する世界を築き上げており、出身国ハイチの豊かな文学的伝統を出発点とし、国際都市モントリオールに特徴的なモダンでインターカルチュラルな性格をもった文学・芸術を肥しとして、マルティニックなどのクレオール文学をも吸収しながら希有な文学的境地を切り開いた。

(立花英裕/早稲田大学教授)
(『ハイチ震災日記』訳者あとがきより)