2011年08月01日

『機』2011年8月号:戦場のエロイカ・シンフォニー ――私が体験した日米戦 ドナルド・キーン

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戦場のエロイカ・シンフォニー
【小池政行】 先生は鉄砲を撃つのは嫌いだし、反戦思想ですね。「私の人生は逃亡の歴史です。なるべく嫌なことは避けてきた」――と先生はよく言われますが……。だから、アメリカ国民として兵役にとられて、もし海兵隊に行っていたら大変だったことでしょう。それで海軍日本語学校を選ばれたわけですが、アメリカ海軍の語学情報将校になられた。そこでは、自分が戦争に加わるのだとか、アメリカ国民の一人として、海軍将校として、やはり何か国を守ることをしなければいけないのだ、という気持ちもおありになったわけでしょうか。


【ドナルド・キーン】 いや、そうではありません。また、なぜ私が海軍に志願したかと言えば、日本語を覚えたかったからです。海軍に日本語学校があると知りました。その前には家庭教師もいたし、大学でも勉強しました。しかし、週にわずか三時間です。ところが、海軍の日本語学校は一日に四時間の集中教育で、まったく違ったレベルでした。私の反戦思想は相変わらずで、自分が軍隊で武器を使うとは夢にも思っていませんでした。ただ、日本語を覚えたかっただけです。それが最初のきっかけです。


【小池】 でも軍服も着ておられたし、最後は海軍大尉ですよね。


【キーン】 はい、そうです。やがて、書類の翻訳や日本軍が戦場に残していったものも翻訳しました。それから毎月、数時間ですが、捕虜の尋問も任されました。おかげで捕虜たちと大変親しくなれました。戦後になっても友人としてつき合う人もいました。


【小池】 それはなぜでしょうか。


【キーン】 私は、人間が好きだったので。


【小池】 日本人が好きというわけじゃなくて、捕虜となった人間が好きだった。


【キーン】 それに収容所の所長も私の親友でしたし。


【小池】 オーティス・ケーリさん、戦後、同志社大学の先生になられた……。


【キーン】 彼は捕虜の中で優秀な人々を私に回してくれたのです。


【小池】 そのハワイで捕虜の尋問をしたとき、先生は別に軍事情報なんてとろうとされなかったのでしょう。


【キーン】 尋問と言っても、指導にしたがって質問しただけです。「戦艦大和や武蔵を見たことあるか」とか。それだけです。しかし、次の質問となると、「最近、どんな面白い小説を読んでいますか」とか、「どんな音楽が好きですか」とか。そして、一、二時間ほど楽しい話ばかりしていました。


【小池】 やはり先生の知的レベルと、そういう話ができる、例えばモーツァルトはいいねとかという、将校クラスだとそういう捕虜もいっぱいいたわけですね。


【キーン】 かなりいました。ある時、私と大変仲の良かった捕虜が「音楽を聴けないのは辛い」と訴えたので、私は「どんな音楽が聴きたいか」と問いました。相手は「ベートーヴェンが好きです」と。「ベートーヴェンの何が好きですか」「交響曲第三番『英雄』です」。考えてみると捕虜に音楽を聴かせることは禁じられてはいませんでした。そこで私は当時の蓄音機とレコードを用意して捕虜収容所に行って、そこのシャワー室で――一番良く音が響くので――レコード・コンサートを開いたのです。まずはホノルルの町で買った日本の流行歌のレコードを聴かせてみると、なるほど全員がそれを知っていました。その後で、ぼくは言いました。「これからは外国の長いクラシック音楽ですが、聴きたくない人は帰っても結構です」と。
 しかし、誰も帰らないので、そのままベートーヴェンの第三を通して聴かせたのです。それは、私の戦争経験の中でも、忘れられない一件です。戦時中、確か一九四四年でしょう。


【小池】 形の上では敵国同士なのですが、何か、お互いに敵意というのは感じられなかったのですね。


【キーン】 その時、出席していた捕虜の一人は高橋義樹という人で、伊藤整の弟子でした。伊藤さんの日記にも出て来ます。彼は「同盟通信」の記者として第一線に送られて、グアム島で捕虜になったのです。そして、戦後になってから、彼はあの晩の出来事、つまりレコードを聴いた夜のことを書きました。どうして私がベートーヴェンを聴かせたかと。ベートーヴェンが自由主義者であったからか、ナポレオンを嫌ったからか、日本人に西洋的思想を植え付けるためかなどと、色々考察した末、ただ単に私や捕虜がそれを聴きたかっただけと結論づけた、そんな素晴らしい短編を残しています。


【小池】 先生は語学将校として、ニミッツ提督から、草書体を解することができた米国海軍語学将校として表彰状をもらっています。でも、優秀な語学将校、情報将校としてものすごい軍事機密をとろうなんて、全く考えていなかったわけですね。


【キーン】 はい。私の立場では軍事機密とはまったく無縁でした。


【小池】 それでは、捕虜と仲よくするということは、ご自分の日常であり喜びであったわけですね。


【キーン】 そう。私だけではなかった筈です。要するにアメリカが必要とする情報は一般の捕虜たちも知りませんでした。島のどこに要塞があるか、といった次元の知識はありませんでした。そして、戦艦大和や武蔵を見た人も皆無でした。見たとしても遠くから見た程度で、戦艦の鋼鉄の使用量その他、具体的知識はまったくありませんでした。


【小池】 先生は情報将校というより、捕虜のお友達、先生みたいな感じで接していられたということですね。


【キーン】 そんな感じもありました。今も付き合いのある元捕虜も一人だけ残っています。

沖縄戦で
【小池】 先生が沖縄を歩いていく中で、どのようなことを経験されたか、印象に残っておられるか、具体的に伺いたいと思います。


【キーン】 アッツ島は実に嫌な所でしたが、少なくとも民間の人がいなかったことでは救われました。しかし、今度はもう本当に人が住む所での本格的な戦争でしたから。そして、アメリカ軍は洞窟の中に隠れている人々に、出て来いと呼びかけるのですが、誰も顔を出しません。そこで実に非人道的な方法が使われました。洞窟の入り口で火を焚くのです。
 すると洞窟に煙が入るでしょう。そうすると人がやっと出て来ました。しかし、老人ばかりで、あまりに気の毒で見ておられず、私はそれを止めさせました。そんな行為を見たのは一回だけでしたが。私は次に洞窟の中を確認するべきだと考えたのですが、誰も入らない。そこで私自身が入ったのですが、しかし、なんとそこにはまだ軍人がいたのです。しかも鉄砲を構えて。どうして私を撃たなかったのか不思議です。私はもちろん飛んで逃げたのですが。大体、こちらは丸腰で武器も持っていなかったし。


【小池】 でも、将校だから拳銃は持っていたでしょう。


【キーン】 立場上、拳銃を持たされたことはありましたが、その時は何の武器も持っていませんでした。普段も携帯していなかったし。私は心から武器を嫌悪していましたし、今でもそうです。とにかく、一度も発砲したことがありません。


【小池】 それは、嫌いだったというのはよくわかるのですけれども、一度も撃ったことがないのですか。


【キーン】 絶対にありません。


【小池】 ほかの兵隊たちは、例えば海軍、陸軍の兵隊たちはもう始終撃って、自分の身を守らなければいけない、と。


【キーン】 幸い、私は最前線など、本当に危機が迫る場所に身を置くことが極めて少なかったからです。もし、第一線にいたとするなら、あるいは使ったかも知れませんが、最後までそんな必要はありませんでした。自分の身を自分で守る、そんな切羽詰まった状況を経験することもなく。ただ一度の例外が、先ほど述べた洞窟での経験です。むろん、私は最前線に行くことはありましたが、その目的は攻撃ではなく、投降を呼びかける放送でした。

*『戦場のエロイカ・シンフォニー』より
(Donald Keene /日本文学研究者)
(こいけ・まさゆき/外交評論家)