2011年08月01日

『機』2011年8月号:東北自治州設立の構想 増田寛也(前岩手県知事・元総務大臣)

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ゼロからの視点で東北を見る
 筆舌に尽くしがたいとは、まさにこの事を言うのであろう。巨大津波によっていくつもの町が丸ごと海の中に消え去ってしまった。一瞬にして何物にも代え難い将来を奪われてしまった人々の無念さを思うと、言うべきいかなる言葉も見つけられない。被災地の人々がこの苦難を乗り越えて、一日も早く生活の安定した日を迎えることを心から願っている。
 東日本大震災の発生から間もなく半年が経つ。復興に向けて政府の対応は余りにも遅い。避難所生活の解消、仮設住宅の建設、がれきの処理、義援金の配分。すべての対応が後手に回っている。腐敗した魚から発生した蠅や蚊が被災者を悩ませている。猛暑の到来とともに衛生状態が極度に悪化している。これらはすべてが事前に予想されていた。にもかかわらず、結局、改善されることがなかった。自治体が機能していないと非難の鉾先を自治体に向ける政府関係者もいる。しかし、多くの職員が死亡したり被災している状況の中で自治体の実力不足を責めることができようか。憲法上、国民が等しく「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を有しているにもかかわらず、文明国と言われる日本の被災地でいまだに一〇万人の人々が命をすり減らす生活を余儀なくされているという事実から目をそらすことはできない。今、最優先されるべきはこれらの人々の命を救うということであり、自治体の能力が不足しているならば、政府が責任をもって救援策を実施しなければならない。
 今回の大震災は千年に一度と言われている。地震の規模M九・〇は、過去の宮城県沖地震などをはるかに上回る大きさであり、歴史を遡れば貞観地震に行き着く。国の正史としては『古事記』以来六番目となる『日本三代実録』によれば、貞観一一年(八六九年)陸奥国を巨大な地震が襲い、その津波により溺死者が一千人でたとある。当時の人口は約五〇〇万人(推定)であり、現代では約二万人規模の被害となろう。これは、まさに今回の被害と同じである。このように、東日本大震災は千年に一度起こるかどうかという巨大な規模で地域を完全に破壊した。「三・一一」以前の生活を取り戻す感覚を根本から捨て去らなければならないほど、被災地が負った痛みは大きい。関係者はゼロからの視点で東北を見つめ直す覚悟が必要で、その復興に当たっては前例にとらわれることなく全く白紙のカンバスに思い切った絵を描くつもりで取り組むことが肝要だろう。

自然と災害との共生
 まず、防災対策では、自然災害との共生という理念をしっかりと確認すべきだ。「減災」という言葉がある。自然の災害は人知を超え、防ぎ切ったり克服はできないが、できるだけ被害を減らすという共生の考え方である。三陸地域では減災対策として、防波堤等の構造物と高台への避難との組み合わせで自然災害との共生を図ってきた。漁業を中心として生活が成り立っているので、働く場は海辺に近い所以外にはあり得ない。近年までは津波に苦しめられながらも高台に避難することを中心に漁村集落が共同体の知恵で被害を最小限に抑えながら漁民を守ってきた。ところが、戦後のある時期、公共事業の拡大とともに自然災害は克服できるという考えがでてきた。土木技術を駆使して巨大な防波堤や防潮堤などの構造物が構築されると、それで完全に津波を押さえこめるのではないかと考えた。こうした考えがいかに人類の傲慢なものであるかが白日の下にさらされたのが、今回の大震災であった。今後は避難路の整備と避難訓練の実施といったソフト対策の充実を図って、自然災害との共生を図っていかなければならない。
 まちづくりについては市町村が住民と十分な議論を行って決める必要があるが、その前提として政府が被災地の土地の権利調整について処理方針を明確にする必要がある。津波で浸水した被災地では、住民が建物を現在地に再建するか移転するか迷っている。また、自治体も住民各自が住宅や工場をバラバラに建てないように時限的に建築制限をかけているところがある。今後、こうした個人の財産権と公共目的による利用の制限をどのように調和させるのか、政府にはその解決策を示すことが求められる。
 例えば、特別な貸借権を認定して市町村が被災地の土地を借り上げる方法が考えられる。住民は貸借料をもらい高台など安全な地域に移転する。他には、国が土地を買い上げる方法もある。三陸沿岸一帯は、明治以降だけでこれまで三回、巨大な津波に襲われ、今回が四回目の悲劇となった。こうした災禍を終わりにするためには、浸水した土地の利用を制限するとともに、高台移転を可能な限り実現したい。そのためには、憲法上「公共の福祉」による制限が認められているとはいえ、事実上所有権が絶対視され、権利の制限にきわめて慎重だった従来の考えを大きく変更させる必要がある。ところが、こうしたいわゆる土地問題の解決については、政府は今回もきわめて後向きで、個人の努力に委ねる方針のようだ。しかし、これではおそらく高台移転はほとんど実現できないだろう。従来よりも二歩も三歩も突っ込んだ思い切った措置を求めたい。
 政府の考え方が示されれば、後はその範囲で地元が居住選択を行いまちづくりが動き始めるが、案がまとまるまでそれなりの時間が必要である。二~三年は建築制限を行ってバラバラに家屋が建ち始めるのを抑えることが不可欠となろう。政府では、今後、復興基本法に基づき復興庁を設置する方針と言われている。その内容は明らかではないが、こうしたまちづくりなど復興策を実行するための強力な行政組織として被災地である東北にその拠点を置くべきである。


後藤新平の震災復興
 大正十二年(一九二三年)の関東大震災では、直前まで東京市長を務めた後藤新平が、内相兼帝都復興院総裁に就任し、復興を強力にリードした。
 後藤は内相に就任したその晩のうちに、【1】遷都はしない、【2】復興費は三〇億円、【3】欧米の最新の都市計画を適用する、【4】地主に断固たる態度をとる、という基本方針をまとめ、四日後には「帝都復興の議」を閣議決定した。その内容は【1】復興に関する特設官庁の新設【2】復興経費は原則国債、財源は長期の内外債を発行【3】被災地は公債を発行して買収し、土地を整理した上で売却・貸し付けるという大胆なものであった。
 後藤はその二〇日後には首相直属機関で省と同格の帝都復興院を発足させ、自ら総裁に就任した。復興院は復興に関する権限を集中して、人員は内務省、鉄道省などから約六〇〇人の精鋭を招集、七カ年の復興計画をまとめたのは、発足からわずか二カ月後であった。復興院は首都である帝都の復興という性格上、国直轄の組織ではあったが、その権限の強力さと何よりもそのスピード感には圧倒される。こうした強力な組織を短期間にまとめあげるには後藤の力量に頼るしか他に道は無く、ここは、彼の真骨頂が十分に発揮された場面でもあった。
 翻って、今回の大震災後の復興に当たって、今の政界の中で復興庁長官として誰か後藤新平に匹敵する人物がいるかと問われれば、残念ながら否と答えるしかない。しかし、後藤といえども、すべてを彼一人の力で行ったわけでは決してない。後藤のためなら全力で協力する有能な内務官僚、鉄道技術者、一流の学者がいた。

東北自治州設立の構想
 東日本大震災では、復興庁に優秀な人材を集め、復興を制度面、財政面で全面的に後押しすることだ。その上で政府が復興全体に通じる基本方針を掲げ、具体的な各地の復興計画の絵姿は地元が描く。その際には、地域の内外の人材を総結集し、海外の知恵も招き寄せることが必要だ。
 今後、復興のデザインが各県それぞれから出てくるだろう。各県が主体的に描くということは重要なことであるが、復興庁ではなく地域のリーダーシップで新しい東北の姿につなげていくためには各県を超えた東北全体としての統一性に留意した世界の一員としての東北像を東北人みずからが示すことが重要である。自立の気概に満ちた東北像、それは、日本の国家像をどう構想するかの議論ともつながる。
 私は、ここで東北自治州設立を構想すべきと考える。海の向こう、スコットランドでは一九九九年に大幅な自治権を獲得したスコットランド自治政府が発足、今年五月、政権与党が圧勝して四年以内に英国からの分離独立の是非を問う住民投票を行うこととなった。政権与党は原子力政策でも独自性を発揮し「脱原発」を主張。英国政府の原発推進方針に真向から対立している。歴史的背景が異なるとはいえ東北復興において「東北から世界を変える」という気概を持って白紙のカンバスに思い切った、壮大な構想を描きたい。
 三月一一日を境にして、東北の風景は一変した。かの地には多くの涙が流れた。その悲しみの中で、卒業式は粛然と行われ、各地の避難所となっている体育館から被災者に見守られ多くの若者が巣立っていった。彼らの未来のために、東北の地を東北人の手で必ず復興させなければならない。 (二〇一一年七月一九日)

(ますだ・ひろや)