2011年07月01日

『機』2011年7月号:震災復興――後藤新平の120日 後藤新平研究会

前号   次号


「復旧」ではなく「復興」を
 二〇一一年三月一一日午後二時四六分、東日本大震災発生。今、この未曾有の惨禍が日本を揺るがしている。マグニチュード9の巨大地震と大津波は、岩手・宮城・福島各県を中心に南北六〇〇キロメートルにわたる地方市町村に甚大な被害をもたらした。さらに福島原発事故による広域の放射能汚染という、かつてない不気味な災厄が生命を脅かしており、未だに収束の目処が立っていない。
 この東日本大震災の発生以後、幾度となく歴史から呼び戻されている人物がいる。八八年前に、関東大震災からの復興事業に果敢に挑んだ、後藤新平(一八五七―一九二九)である。一九二三年九月一日に発生した関東大震災は、国の中枢である首都東京と横浜を中心に南関東を襲った地震と大火が、一〇万人以上の膨大な人命を奪い、家屋・インフラを破壊した大災害である。それは、江戸の遺構の上に、ほとんど無秩序に積み上げられ膨張してきた中枢都市を一掃するものであった。
 折しも八月二四日の加藤友三郎首相の死により前内閣が総辞職、政権空白期にあったなかで、大震災に遭遇した後藤は、九月二日、山本権兵衛内閣の内務大臣に就任、情報も混乱し体制も整わぬ状況下で、矢継ぎ早に緊急対策を打ち出す。未曾有の危機のなかで臨機応変に対策を実行していくさまは、まさに後藤の面目躍如たるものであった。
 もちろん緊急対策のみに追われていたわけではない。早くも九月六日には「帝都復興の議」を閣議に提出し、「復旧」ではなく「復興」を、と訴えた。単に東京を元通りに修復(復旧)するのではなく、焦土の上に、近代日本にふさわしい世界に誇れる首都を新たに建設すること――それが、後藤の目指した「復興」であった。復興計画を策定するには、徒手空拳では立ちゆかない。復興にかかわるあらゆる問題点を洗い出すために、後藤は「臨時帝都復興調査会」という調査機関の必要性を指摘し、その調査のうえに復興計画を立案・推進する「復興省」の創設を主張した。残念ながら、本書で示すように、「臨時帝都復興調査会」は「帝都復興審議会」に、「復興省」は「復興院」に格下げされるが、ともあれ内相後藤は、自らの提唱から生まれた帝都復興院の総裁を兼任することとなる。震災発生から約四週間、九月二七日のことであった。

後藤が説いた「自治」の精神
 後藤新平の描いた復興計画は、さまざまな既得権益や政治的思惑との衝突を経て、予算規模としても大幅に縮小され、後藤の理想像には程遠いものとなっていった。あまつさえ後藤自身もその政争のなかに巻き込まれて、あらぬ批判を浴びせられることとなる。国家を担う政治家たちが、目前の政争に明け暮れる姿には、関東大震災と東日本大震災とが二重写しとなっている。
 実は後藤新平は、そのような不毛な政争を見越したかのように、自ら生み出した帝都復興院が動き出した日に、おのれの政治的スタンスを述べた「大乗政治論」という文章を記している。冒頭に「国家は一人のための国家ではなく政府は一人のための政府ではない。したがって、責任を国家に負うものは必ず無私の心で奉仕し、常に国民とともに、国民のために貢献しようと目指さなければならない……」とある。
 政党政治すなわち多数政党が、おのれの党だけの内閣を造る政治の在り方を批判し、多数党であれ、少数党であれ、あるいは党派に属さない者たちであれ、それぞれの代表者によって国民的内閣を作り、「大乗の精神」をもって政治を行うべきだとした。大乗とは利他ということだが、後藤の言葉で言えば、それは政治家の「自治」のことであって、(一)他の恩義を蒙らず、(二)常に他に対して何ものかを寄与するように務め、(三)そうして何らの報酬を求めない、という、「自治三訣」(人のお世話にならぬよう/人のお世話をするよう/そしてむくいを求めぬよう)を眼目とすることだ。
 このような立場を貫いて、政争の渦中にありながらも、逆風をついて、後藤は復興の道筋をつけていった。組閣から四か月に満たない一二月二七日、天皇に代わって国務を総覧する摂政宮(後の昭和天皇)が狙撃された。この虎ノ門事件により山本内閣は総辞職、後藤もようやく端緒についたばかりの帝都復興事業の現場を去ることを余儀なくされる。以後、後藤は在野にあって復興を支援し続けた。

「平成の後藤新平」待望論
 ところが今、東日本大震災という未曾有の災害を前にしても、国家を担うべき政治家たちの政争は激化している。罹災者の救援、復旧さえ目途が立っていない。ましてや「復興」への展望は見えていない。平成の「後藤新平」を求める声はますます高まっている。
 関東大震災と東日本大震災とのあいだには、さまざまな違いがある。首都か地方か、火災か津波か、被災地域の広さ、そしてもちろん時代が異なることによる条件の違いは無視できない。加えて、何よりも大きな違いをもたらしているのは、原発事故とそれに伴う放射能汚染である。
 放射性物質は、その半減期の長さによって、じわじわと時間をかけて人体や生態系を蝕む。のみならず、たとえ原子炉を廃炉にしたとしても、それを無害な状態にいたらせるまでに想像を絶する膨大なコストと長い時間を費やさねばならないことは、チェルノブイリの事例などが示している。そういう、ほとんど解決不能のエネルギー源を、人類は電力源としてかかえこんでしまった。
 そもそも、明治から昭和にかけて近代化という課題を背負った日本において、産業を発展させるために、自然を利用した新たな電力源として、「水力」を普及させたのは、後藤新平であった。しかし戦後、新たな電力源として「原発」が導入された。それは高度経済成長と効率至上主義の社会を支えてゆく基盤となった。国をあげて、原発安全神話とクリーンエネルギー論が喧伝された。
 好むと好まざるとにかかわらず、そうした社会を受け入れ、そのうえで生活を営んできた我々を直撃したのが、東日本大震災であった。
 東日本大震災は、直接の死者・行方不明者のみならず、多くの避難民を生み出した。完全に生活の基盤を破壊された罹災者たちにとって、何よりもその生活の「復旧」が優先されなければならない。
 それと同時に、東日本大震災を真に乗り越えていくために、既存の社会を問い直し、ひとりひとりの「自治」に基づくまちづくりこそが、現代において求めるべき「復興」の姿だろう。

「復興」に全身全霊を賭けた後藤
 本書(『震災復興・後藤新平の120日 都市は市民がつくるもの』)では、関東大震災発生から山本内閣総辞職にいたる四か月間の、帝都復興に邁進した後藤新平の姿を、多数の資料や証言に基づいて構成したドキュメントである。そこには、非常事態に直面して、限られた条件のなかで最善の策を最短で編み出していく、「政治」の原点のありようが現れているはずだ。
 そして、表層的な政争に足を取られつつも、時代にふさわしい「復興」の実現に向けて全身全霊を賭けた後藤新平の姿は、未曾有の震災を経た現代の読者にとって、新しい時代を考えるための手がかりとなるものと確信している。

(構成・編集部)