2011年07月01日

『機』2011年7月号:現場から乖離した「原発の安全神話」 菊池洋一

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 私は、一九七三年三月から一九八〇年六月までの約七年半、米国の原発関連会社GETSCO(ゼネラル・エレクトリック・テクニカルサービス・カンパニー、後のGEII)の原子力事業部極東東京支社企画工程管理のスペシャリストとして、東海原発第二号機(七八年運転開始)と福島第一原発の六号機(七九年運転開始)の心臓部分である第一格納容器内の建設に深くかかわりました。(…)
 私もGEで原発関連の仕事をやり始めるまでは、原子力については何も知りませんでした。米国GE社の子会社GETSCOに就職したのは、仕事上の師でもあった先輩から「原発建設の仕事は原子力の平和利用なので、本当にやりがいのある男冥利に尽きる仕事だ」と、強く説得されたからでした。第一次オイルショックで石油の値段が倍増し、(・・・)日本経済が大混乱をきたしていた時期のことで、しかも「原子力の平和利用」にかけるその先輩の情熱は、被爆都市広島の出身者ならではのものでした。もちろんその先輩だって、僕を騙すつもりではなかったと思いますが、結果的にはその先輩も僕も騙されたことになる。
 今になってみれば「原子力の平和利用」などあり得ない。しかし当時、石油資源をほとんど持たない日本が、石油の代替エネルギーを必要としていたのは当然のことでしたので、私だけではなく日本中の人たちが「原発の安全神話」を受け入れ易い時期だったと言えるでしょう。実際、私も、「みんなのためになるのなら」ということで一生懸命働きました。(…)
 要するに、私は、人生の一番の働き盛りを原発に捧げました。つくる以上は絶対安全なものをつくらなければならない、ということで、一生懸命働き、血尿まで出ました。炉の基礎コンクリート打設時には朝暗いうちから起き、夜一〇時ぐらいまで、それも命がけの検査をして回りました。次の朝起きてトイレに行くと、おしっこが真っ茶色です。
 しかし若かったから、希望に燃えておりました。「永遠の光を現世に与うべく、限りなき奉仕と愛の心もて」(・・・)、そんな歌詞の母校の歌を歌いながら、毎日現場に行っていました。その(・・・)結果が、今の福島です。もうたまらんですよ、死ぬまで。

*全文は『環』46号に掲載