2011年07月01日

『機』2011年7月号:独学者の歴史叙述 渡辺京二+新保祐司

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「独学者」の歴史叙述
【新保祐司】 橋川文三さんと渡辺先生に共通しているのは、深い意味で「独学者」だということです。形式的・制度的な学問ではなく、『黒船前夜』でも、まさに漂流民というのがポイントになっていますが、文化の漂流民のように流れて、漂着したところのものを取り上げる。そうした自由さと偶然性を生かし切る独学者ならではの逞しさがある。学問があまりに制度化・体系化した今日において、そうしたところにこそ、橋川さんや先生のユニークさがあります。


【渡辺京二】 橋川さんは、おそらく小説を書こうと思ったら書けた方だったでしょうね。文学性の濃い方で、文学に対する理解という点でも非常にレベルが高かった。文学を一つの軸にした歴史、思想史が書けた。だから三島由紀夫が惚れたんですね。三島が、学者の中で文章が書けるのは橋川一人だ、と言ったんです。僕も文学をやりたくて文学者になれなかったわけですから、そういう文学に対する自分の思いが、歴史を書くことにつながっている。そういう点では、橋川さんと似たところがあるかもしれない。


【新保】 歴史叙述ですね。『黒船前夜』も歴史叙述ですが、これこそ、文章表現として最も質の高いものであるべきです。日本では、下らないものであっても小説の方が上だと思われがちですが、本来は、歴史叙述こそ、最高の知的表現であって、大佛次郎もそれを『天皇の世紀』でやったわけです。ですから、今回の御本は、久々に大佛次郎賞にふさわしい作品であったと思います。


【渡辺】 いやいや、そんなことはないですよ。


【新保】 対象がないので小説にも与えたりしていますが、単なる論文、あるいは小説や物語ばかりで、大佛さんがイメージしている歴史叙述、ある意味で、この最高の知的行為がいま非常に貧弱になっている。


【渡辺】 見識というか、鑑賞眼というか、読書あるいは自分の文章を書いてきたという修練の中で、やはりそれなりのものを持たないと、そういう歴史叙述にはならないですね。歴史を素材にして、いろいろ続き物を書いて、今の読書界に訴える面白いものを書ける人はいる。そういう方はそれなりの勉強もしていらっしゃる。けれども、そういう方が例えば日本の現状について発言しているのをみると、なんてことはない。新聞の論説委員が書くようなことしかおっしゃらない。一つの透徹した自分自身の歴史哲学というか、「人間とは何か」ということについての見極めなどは持たずに、面白く、華やかな歴史物語を書く方はいらっしゃいますが、歴史叙述は最高の知性がやるべきだということには日本はなっていない。しかし、ヨーロッパには、そういう伝統がありますよね。

エピソードを拾い出す楽しみ
【新保】 『黒船前夜』の「あとがき」で、「歴史という物語を編む楽しさが捨てがたい。史料からエピソードを拾い出す楽しみといってもよい」と書かれていますね。史料とエピソードは違う、と。


【渡辺】 西洋の歴史家は、そんな史料を生では使わない。だから読める。西洋の歴史書は、相当専門的な本でも、例えばマルク・ブロックの『封建社会』にしても通読可能です。ところが日本の歴史家のものは、努力して読もうとしても通読不可能。日本の歴史家には、「物語がなければいけない」という意識がない。戦前まではあった。戦後の科学的歴史主義でそうなってしまったのか。


【新保】 しかしそれは、単に文章がうまい、下手だという、そういう表面的なことでごまかせる問題ではないですよね。もっと根底的な問題であって、先生のこの本を読んでいても、人間像が感じられます。この中で一番面白かったのは、奉行、荒尾但馬守成章です。(…)最後のゴローヴニンのところで出てくるんですが、この奉行の描かれ方。


【渡辺】 老中は馬鹿だけれども、奉行クラスには、優秀なのがいっぱいいる。


【新保】 優秀なだけでなくて、人間的にもユーモアがあって、公正さもある。


【渡辺】 江戸人は、ユーモアのセンスに富んでいた。 (後略 構成・編集部)

(わたなべ・きょうじ/評論家)
(しんぽ・ゆうじ/文芸批評家)
*全文は『環』46号に掲載