2011年07月01日

『機』2011年7月号:「東北」から世界を変える 川勝平太・東郷和彦・増田寛也

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復興の基盤としての地域共同体
【増田寛也】 岩手県、宮城県を含む三陸地域での大きな津波災害というのは明治以降は三回、明治二十九(一八九六)年、昭和八(一九三三)年、昭和三十五(一九六〇)年です。明治二十九年の津波は、二〇〇五年のスマトラ沖地震までは世界最大の津波被害といわれていたもので、当時二万二千人の方が亡くなりました。そして昭和八年にふたたびあって、昭和三十五年はチリの地震による津波です。(…)こういう地域ですが、それにしても今回は、マグニチュード九・〇という、過去をすべて上回る大変大きな津波災害が発生しました。
 (…)合わせて、原発事故を契機として電力が相当数失われました。地理的には東北を中心とした津波災害だけでなく、電力喪失を通じて、東日本のみならず、全国民がなんらかの痛みを負うという、自然災害を契機としたものとしては今までにはない大きな規模の災害になってしまった。自然災害は天災といわれますが、そこに原発制御の失敗という人災の要素も加わって、全国スケールの災害に変わってきているということがあると思います。
 今後につながるという意味で一つ申し上げたいのは、最初は人命救助、救命救急が急がれるなかで、今回は被災した自治体以外の全国の自治体がすばやく現地に入って、自治体間の連携の強さというものがあらためて出てきたのではないかと思います。人命救助といった当初の立ち上がりの段階から、いろいろ動いてくださった。
 そして、それにも増して地域の「共助」地域の共同体の強さがはじめに出てきて、全世界が称賛するような、乏しい毛布だとか食べ物をみんなで寒いなかでも分け合いながら、整然と秩序だった対応をしてくださった。これは日本のなかで最もそういう共同体の意識が残っている三陸地域ならではのことだったのではないかと思います。

東北から「新しい文明」の創造を
【東郷和彦】 私はずっと外務省で仕事をして、外務省を辞めてからほぼ一〇年は外の仕事をしてきました。平成になって二〇年以上経ちますが、明らかに日本は漂流してきている。世界のなかにおける日本の地位がどんどん下がってきている。如何ともしがたい焦燥感に駆られて、この二〇年、日本を見てきたのですが、この天の試練に日本人全体が力を合わせて新しい東北をつくることができれば、それは新しい国家目標になり、かつ世界の中での日本の立場というのは、まったく変わる。
 そのうえ、原発の問題が出てきている。最近、私はこれも天の試練だと考えています。ですからこの原発問題を跳ね返して新しい日本をつくる。二つの課題が出たわけですけれども、その両方をちゃんとやることができれば――そしてやらなくてはいけないと思いますが――、最終的に日本は「二十一世紀文明の理想郷」をつくることができるのではないかと思っています。
 しかし、それをどう実現するのか。(…)いくつか絶対に押さえなくてはいけない局面があると思うのですが、まず第一に、苦しまれた方ご自身です。いまの苦しみを、とりあえず普通に生活できるところまで戻すというのが喫緊の課題で、それが実現できなければ、今ここで私がさらに申し上げたい復興に向かっての大きなヴィジョンというのも、本当にむずかしいと思います。でもそれをなんとかやりつつ、しかしその人たちが、ああ、やってよかった、新しい東北をつくって本当によかったというものにしなくてはいけない。
 では、それが実際にどうできるかというと、二番目の局面としては、市町村から県に至る地方自治体からの発信が不可欠だと思います。それはこの一〇年ぐらい、今後の日本をどうするかいろいろ議論したなかで、日本はもう中央集権だけではだめだと、地方発信でなければだめだという声がいろんなところに満ち満ちていたわけで、それをまさに東北発でやらなくてはいけないと思うんです。
 しかし、「東北発」といって現地と県の人たちの声があるだけでもだめで、やはり国すなわち政府がそこにちゃんとかんで、政府としての責任を果たす。これが第三の局面です。四番目に、国民一人一人です。震災発生の当初、日本人はみんな連帯感をもって、日本中から助けに行こうというような雰囲気がありましたが、しかしこの復興の段階になって、日本人の力がさらに本当に結集できるのか。いまの時点では、そこまで日本人は覚悟が徹底してないのではないか。逆にいうと、それだけの危機感をまだ日本人はもってないのではないかという気がするんです。でも、そこをなんとか自覚しこの四つのレベルでもって力を集めていかなくてはいけないというのが、次に私の申し上げたいことです。
 しかし最後に、これを日本人だけの作業にしては絶対にいけないと思うんです。これを世界に対して呼びかける。今までのところ、たとえば日米同盟の観点で米軍がいろいろ動いてくれた。原子力に関してはフランスも入ってきている。けれども、復興の段階で、世界の知恵、世界のアイディア、世界の技術、そういうものを被災地に入れていくというところまで、まだ考えてきてないと思うのです。でも、「二十一世紀文明の理想郷」にまでもっていくためには、日本はオープンにして、そういう世界の知恵を入れていくというプロセスが、私は絶対に必要なのではないかと思うのです。

日本の復興のモデルとしての「東北」
【川勝平太】 日本人は昔から地震災害からは立ち直ってきました。地震や津波からは立ち直れます。ただ、三陸の津波の破壊力は想像を絶するもので、すさまじい光景でした。津波が襲ってきたところは一網打尽です。堤防も破壊され、人力でかなうものではない。
 静岡県は温泉旅館が日本で一番多い。避難所で生活されている方々を、一人でも二人でも、もちろん数百人でも、いっしょにお連れするつもりでしたが、「苦しみも悲しみも皆いっしょです」「いっしょに立ち直りたい」といわれる。強いコミュニティの絆があり、感動しました。これは復興の原点だと思いました。
 それを実感し、私は岩手県は復興できると確信しています。同じ悲劇をくり返してはならないので、それを最もよく知っている岩手県の方たち自身に、復興の仕方について、よく考えていただきたい。
 宮城県の女川原発は海抜一四・八メートルのところに建てられたので、津波の難を逃れました。原発事故がおこったときには、三つの原則があります。まず「停める」、つぎに「冷やす」、そして「閉じ込める」です。女川は最初の「停める」ことができて被害を最小限に食い止めました。宮城県も私は復興できると思う。
 ところが、福島県は違います。原発事故は日本史上初めてです。当初、政府は福島第一原発から三キロ以内に避難命令、三キロから一〇キロは自宅待機を命じた。今では二〇キロ以内が警戒区域で立ち入り禁止。共同体が大地から切り離されました。東北三県の被災地で、共同体が残りえたところと、失われたところとでは、大きな違いです。福島の原発周辺地域では復旧すらあやうい。
 この震災は静岡県にとって他人事ではありません。静岡県にはリアス式海岸の伊豆半島があり、海岸線は五〇五キロで、津波に襲われたこともあり、また起こりうる。また、東海・東南海・南海地震が三連動で起こりうる。東海地震のマグニチュードは八・〇、東海・東南海が連動すれば八・四、それに南海が連動すれば八・七です。東海地震を想定して訓練してきました。また、浜岡原発があります。さらに、活火山である富士山があります。災害条件がすべてそろっています。
 訓練はつねに本番のつもりです。それがいま生かされています。救援活動は同時に防災力を高める学習でもあります。静岡県では防災力を高めるつもりで救援に従事しています。東北の復興は、静岡のような他の地域を含めて日本の復興のモデルになりうる。われわれは東日本大震災をわが事ととらえ、復興に全面的に協力し、われわれにとっての新しい地域づくりの指針にします。 (構成・編集部)

(ますだ・ひろや/前岩手県知事、元総務大臣)
(とうごう・かずひこ/元オランダ大使)
(かわかつ・へいた/静岡県知事)
*全文は『環』46号、『「東北」共同体からの再生』(今月刊)に掲載