2011年05月01日

『機』2011年5月号:金融資本主義の崩壊 山田鋭夫

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「『ありえない』はありえない」
 「こんな地震は想定外だった、千年に一度のことだ」。大震災による原発事故を前にして当局はこんな弁解を繰り返している。だがこれまで、原発は何と説明されてきたか。いわく、「原発なくして経済成長なし」「安全性は科学的に証明されている」……。
 これは実はどこかで見た風景だ。そう、三年前のリーマンショックに際して当事者が口にした言葉とそっくりなのである。「こんな金融危機は想定外だった、百年に一度のことだ」。危機以前にかれらが自慢げに語っていた言葉もそっくりである。いわく、「金融自由化なくして成長なし」「だからデリバティブを規制するな」「証券にリスクがないことは金融工学や格付機関によって保証されている」……。
 「科学」的には起こりえないことが、かくもしばしば起こったのである。N・N・タレブ『ブラック・スワン』ではないが、「『ありえない』なんて、ありえない」のである。私たちはそこから、従来の「科学」なるものがもつ特定のイデオロギー性に改めて警戒すべきであるし、大危機を例外視するのでなく、これを織り込んだ形の研究を進めていくべきであろう。

ハイエク的危機
 東日本大震災が計り知れぬ災厄をもたらしたように、二〇〇八年の金融危機は世界に大混乱をもたらした。危機は震源地ウォール街からグローバルに広がり、そのなかで日本経済は特に大きな痛手を負った。こうした大危機を、例外的・偶然的なことといって済ますのでなく、本書(『金融資本主義の崩壊 市場絶対主義を超えて』)は一方で、これを資本主義に本質的につきまとう「構造的危機」として捉える。そこには二十世紀以降に限っても一九三〇年代大恐慌、一九七〇年代スタグフレーション、そして今回というように、資本主義が構造的な大危機を繰り返しながら変遷してきたという大きな歴史観が横たわっている。経済学研究に長期的歴史の眼を復活させることは、「想定外」などと言わせないためにも絶対に必要である。
 同時に、今回は従来の危機のたんなる繰返しではない。前世紀末よりアメリカでは、金融主導型成長による「繁栄」を謳歌していた。株価であれ住宅価格であれ、とにかく資産価格の上昇つまりバブルが全経済を牽引してきた。住宅ローン債権は証券化され、それが金融イノベーションのもと、複雑至極なデリバティブ商品として世界中に販売された。複雑すぎてどれだけのリスクがあるのか、誰にもわからなかったが、それでもわれ先にと買い漁られた。これを規制しようとしても、「金融を自由化すべし」「規制は成長を阻害する」の大合唱の前に、金融は野放しとなった。経済学はといえば、ランダムウォーク理論など、市場の効率性を弁護する議論が横行し、市場の暴走に手を貸すのみであった。
 しかし住宅バブルは、サブプライム・ローンの焦付きをきっかけに急速にはじけた。そこからすべてが逆回転を始めた。デリバティブ商品はもはや価格の付けようがなく、紙くずとなった。大経済学者ハイエクを持ち出すまでもなく、「価格」こそは社会経済の各所に存在する情報を伝達する媒体であり、そこに自由な市場経済の強みがあったはずである。ところが、金融市場の自由にまかせた結果、その価格が機能麻痺を起こしてしまった。市場が市場を殺してしまったのが、歴史的にみて今回の危機の新しい点である。一九三〇年代大恐慌が有効需要不足という「ケインズ的危機」であったとするならば、サブプライム危機の根源的性格は「ハイエク的危機」にある、ということになる。原発事故も金融危機も人災でなくて何であろう。

(やまだ・としお/九州産業大学教授)