2011年05月01日

『機』2011年5月号:広報外交の旗手、鶴見祐輔 上品和馬

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パブリック・ディプロマシーとは
 パブリック・ディプロマシー(広報外交)とは、ある国が別の国の大衆に対して、講演や新聞・雑誌への寄稿などの方法によって情報を発信して、自国にとって有利なように他国の世論に影響を与える活動である。戦前は「宣伝」と呼ばれた。国際社会で生き残っていくためには、軍事力や経済力だけでなく、思想力についても考えなければならない。思想力とは、イデオロギーの発信力である。日本という国を世界に対してどのように見せるのか、どう語りかけていくのかという戦略が、パブリック・ディプロマシーである。
 日本はこれまで、そして現在も、世界に対して発信していくこと、世界とコミュニケーションを図ることが不得手である。砕けていえば、島国根性が抜けずに、いつまで経っても自国の論理でものを考え、それが世界に受け入れられると勝手に思い込んで、自分の考えを相手に届くように発信することもなく黙っている。以心伝心を美徳とするところが今もある。だから、世界から誤解されたままなのである。
 最近、パブリック・ディプロマシーについて語られることが多くなってきた。しかし、日本がこれまでどのようにそれを行ってきたのか、将来的にその方法をどのようにすればいいのか、その結果をどう評価するのかといったことについての研究は、ほとんどなされていない。日本は、パブリック・ディプロマシーについての戦略も確固としたものを持っていない。


鶴見祐輔の国際的な発信活動
 一九二四年、アメリカで排日移民法が成立し、日系移民がアメリカから排除されるという事件が起った。国内の人口増加問題、高関税による経済的圧力、関東大震災によるダメージなどに苦しんでいた日本は、アメリカ排日移民法の成立に激昂した。人種差別されて怒り狂ったのである。
 その時、アメリカに赴いてアメリカの大衆に向かって講演によって日本人の怒りをぶつけたのが、鶴見祐輔(一八八五―一九七三)である。彼は、東京帝国大学在籍中に新渡戸稲造(一八六二―一九三三)に出会い、自由主義を学び、親米的な考え方も含めて思想的に影響を受けた。大学卒業後は官界に入った。後藤新平(一八五七―一九二九)の女婿となり、その影響下で度々海外出張を体験した。新渡戸と後藤が、パブリック・ディプロマシーの旗手として鶴見を育てた形である。官界で一四年間勤めた後に、フリーの立場となって政治家を志した。しかし、鶴見の特徴は、政治家としての活動よりも、むしろ国際的な発信活動にある。本書は、その部分に光を当てている。
 これまで、鶴見の活動はまったく顧みられていなかった。その理由は、第二次世界大戦開戦に至って、親米の姿勢を捨て、戦争遂行内閣に寄り添ったからである。しかしながら、彼が戦間期と戦後期にパブリック・ディプロマシーを展開し、それらがアメリカをはじめとする国々に受け入れられたことは紛れもない事実である。
 鶴見の活動は、講演、ラジオ演説、新聞・雑誌への寄稿、国際会議・国際学会への出席、個人的交流、英文著書出版、歌舞伎公演のコーディネートなど、非常に多様で、現代に示唆するものが豊富にある。
 今、他国に出かけて行って、その国の大衆を笑わせたり、泣かせたり、日本人の思いを大衆の心にしっかり届けたりできる人物を、我々はどのくらい持っているのか。残念ながら、鶴見のように大衆に向かって英語で発信し、第一次世界大戦後から第二次世界大戦後という長期間にわたって、他国の大衆が耳を傾けてくれるような魅力ある人材は数少ないのではなかろうか。
 彼の発信力の秘密はどこにあったのか。その戦略はどのようなものだったのか。世界的な発信力が求められる今、国を超えて人々の魂をゆさぶった鶴見の発信力に学びたい。

(うえしな・かずま/早稲田大学「太平洋問題調査会」研究所客員研究員)