2011年05月01日

『機』2011年5月号:わが生涯――南北統一の悲願 鄭敬謨

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”四・二南北共同声明”
 文益煥牧師一行が平壌を離れたのは一九八九年四月二日の午後だったのですが、その日の朝、文牧師が記者団の前で朗読した宣言文が、今日われわれが「四・二南北共同声明」と呼んでいるものなのです。この声明文は三月二七日から三〇日の四日間にわたる、金主席と文牧師の会談の内容を盛り込んだもので、九項目にわたる相当長文のものですが、中身を要約すれば、次の三つの項目になるのではないでしょうか。
 一 民主は民衆の復活であり、統一は民族の復活であるから、この二つは分離できない一体のものである。
 二 統一に関する南北間の対話の窓口は広く開放されるべきであり、当局者たちの間の独占に委ねない。
 三 統一を平和的に成し遂げるためには、連邦制は必ず経ねばならない経路であるが、この実施は一挙にすることもできるが、時間をかけて漸次的にすることもできる。

声明作成の裏側
 この文書を作成するために私と安炳洙(後に安京浩だと確認)同志は、三一日の夜を徹したのですが、第四項で「統一は誰かが誰かを飲み込むとか、誰かが誰かに飲み込まれることではないという共存の原則から」成し遂げられねばならないという一句は、おそらく金主席の口ぶりをそのまま引用したものだと思い、私は少々笑みを浮かべて原案通りに受諾した表現であり、また「一挙に」を意味する「タンコボネ」という表現は私が初めて耳にする平壌式の言葉であるだけに、面白いと思って私が採択に同意したのでした。また前文で「南北双方は文化的精神的な共通性と、民族としての同質性を再確認する」という部分は私の提案を安同志が受け入れた表現であったのです。
 この表現は、私と文牧師が妙香山を観覧し、米軍の爆撃で被った破壊の傷跡がいまだ癒えない普賢寺の姿を見たときの衝撃と憤慨の故に入れたものだったのでした。その風光明媚な妙香山の深山幽谷に軍事基地のようなものなどあったはずもないのに、爆撃機を飛ばしてきてそこに爆弾を投下したアメリカ人どもの人間以下の無知蒙昧な蛮行に対する憎悪と呪詛をこらえることができなかったのでした。そのうえ妙香山の普賢寺は、秀吉の壬辰倭乱当時、西山大師が僧兵五〇〇〇名を率いて倭寇と戦われたときに寄寓していた本拠地ではないですか。

文牧師と金主席の”心での出会い”
 とにかく四・二共同声明はそれから一一年の歳月が流れた後、金大中大統領がかつての同志文益煥牧師の足跡を辿って平壌を訪問し、金正日委員長と会って発表した「六・一五共同声明」に直結するもので、さらにこれは盧武鉉大統領のときの「一〇・四共同声明」につながるものであるから、統一を志向する南北共同声明の始発点は、文牧師の平壌訪問の時の「四・二共同声明」だったことは自明の事実だと言えましょう。
 しかし、この一連の南北共同声明の主役たちはみな世を去り、今われわれのところにはいらっしゃいません。文牧師と金主席は九四年、同じ年に相次いで世を去り、金・盧の両大統領も去りました。四・二共同声明に署名した北側の許淡同志も去り、文牧師の平壌訪問のために決定的な役割を果たした呂燕九も去ってしまい、一人残っている私は、いま机の前に座ってこの文章を書きながらも寂しい思いを抑えることができません。
 文牧師一行が平壌に滞在中、平壌当局は二一発の礼砲と儀仗兵の閲兵という儀式だけを抜かしただけで、国賓を迎えたような丁重なもてなしをしてくれました。金主席は自身が加わるステート・ディナー(公式晩餐会)を二回開いてくれ、四月二日、一行が平壌を発つ時間が迫ると、自ら私たちの宿舎に訪ねて来て、一行三人をそれぞれもう一度抱擁しながら別れを惜しまれたのでした。
 これからも南北間に、公式非公式のさまざまな形の会談や出会いがあるでしょうが、そのすべての出会いは文牧師と金主席の間の「心での出会い」に始まるものだったという事実は、民族史を飾る美しい一幅の絵として、永く永く記憶してほしいと思うのです。

南北共同声明の出発点
 またこれは金大統領自身の証言ですが、二〇〇〇年六月、南北首脳会談のため平壌に発つ前、何度も人を送って共同声明に関するあちら側の意向を打診したのでしたが、何の反応もなかったというのです。平壌に到着した一三日は歓迎行事で一日が過ぎ、翌日も日が暮れるまで何の話もなくて共同声明は無いものと諦めていたというのです。ところが一四日の晩、突然、金正日委員長が話かけてきて共同声明文の検討が始まったというのです。あちら側では文牧師と亡父の主席との間ですでに成立している「四・二共同声明」があるから、別に急ぐ必要を感じなかったのではないでしょうか。そしてその日の晩、「四・二共同声明」の精神をほとんどそのまま継承した「六・一五声明」が成立し、金大統領はそれを持ってソウルに帰ることができたのでした(日本のNHK特別番組)。
 金大中大統領の歴史的な業績は「六・一五共同声明」であり、それ故にノーベル平和賞も受賞できたのですから、金大中大統領は充分に先に逝った文益煥牧師の苦労にあやかったといっても、それほど的外れのことではないだろうと私は思うのです。

(チョン・ギョンモ/作家)
(『歴史の不寝番』第七章より)