2011年04月01日

『機』2011年4月号:免疫学者、多田富雄の最終詩集『寛容』 石牟礼道子

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今はこんな状態でとっさに答えができません。
しかし僕は、絶望はしておりません。
長い闇の向こうに、何か希望が見えます。
そこに寛容の世界が広がっている。予言です。


多田富雄
(NHK「100年インタビュー」より)

人間存在の極面にたどりつく
 「新しい赦しの国」の中に、


未来は過去の映った鏡だ
過去とは未来の記憶に過ぎない


おれは飢えても
喰うことができない
水を飲んでも
ただ噎せるばかりだ
乾燥した舌を動かし
語ろうとした言葉は
自分でも分からなかった
おれは新しい言語で喋っていたのだ


杖にすがって歩き廻ったが
まるで見知らぬ土地だった
真昼というのに
満天に星が輝いていた
懐かしい既視感が広がった
そこは新しい赦しの国だった


 そのように始まる『詩集寛容』。
 式江夫人の「臨終の記」の最後に「ママ、ママ」と呼び続けていらしたとあります。なんと満たされた一生であられたことか。あらゆる世俗的な賛辞を超えてこのようなご夫人との絆があればこそ、この詩集がありえたのではないでしょうか。牧歌的な哲学とも読める免疫学の集大成も、最後に襲われた仮借ない病苦をくぐりぬけることによって、人間存在の極面にたどりつかれて、やさしさの極みの情愛を、あとからゆく者たちに手渡してゆかれました。

命とひき替えの予言
 先生は『生命の意味論』の中で、「大元祖遺伝子」が超システムとして完成していくありさまを述べておられ、細胞たちが言葉の成立とほとんど同様な働きをして今日の社会を創っている様々な姿から文明論を描いておられますが、わたしはかねがねそれを読みながら、人間から始まって、山川草木虫魚、動物の魂のあり方はどう解釈されるのかしら、とたのしみにして、お尋ねしようと思っているうちに亡くなっておしまいになられ、心の核心のところが、欠損したような気持ちになっております。


彼は百七十歳の翁
かつて荒野の闇に瞬く
燐光の歪みから
川の曲がろうとする気配
山の崩れようとする欲望
海の溢れようとする意思を見た
老人は見すぎたのだ
この世の裏という裏を
あげまきやとんどや
尋ばかりやとんどや
座していたれども
転びあいにけり
睦びあいにけり
とんどや


(「OKINA」)


 命とひき替えの文言が、時代を予言する例をここに読むことができます。「超システム」としての人間のことを手始めに、漂流民の伝統的な演劇本能とその表現について、お話しできたらと想っておりましたので、痛切な想いで、「新しい赦しの国」の中の「未来は過去の映った鏡だ」という詩句をかみしめながら、そこに出てくる震災後の日本人の顔や声音のけなげさに涙しながら、これを書きました。

(後略 構成・編集部)
(いしむれ・みちこ/作家)