2011年03月01日

『機』2011年3月号:「水都」大阪物語 橋爪紳也

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「水の都」の誕生
 「都」は人々の憧れを喚起する。たとえばパリは、しばしば都市を語る際の雛形となる。モントリオールは「北米のパリ」、上海は「東洋のパリ」、ブエノスアイレスは「南米のパリ」、ベイルートは「中東のパリ」、ブカレストは「東欧の小パリ」の別名を持つ。「華の都」への憧憬がこの種の形容を流通させているのだろう。
 日本では大阪がパリに喩えられたというと意外だろうか。水路が市街地を縦横に貫き、都心には象徴的な中洲と丘。幕末から明治初期、訪れた外国人が近似を見てとった。商工の中心であり、芸能や芸術を育む文化都市という点も共通する。幕末に焼け野原となった京都に比し、歴史都市という面も評価された。パリに比肩される独自の美観を有していたわけだ。
 明治三〇年代、大阪は新たな通り名を獲得する。水路網に沿って繁栄した都市の風情をベネチアに見立てた、「東洋のベニス」すなわち「水の都」という冠だ。
 この栄誉を受けた大阪の人々は、遥かに遡って都市の「物語」を書き直す。近江・山城・丹波・大和の水を集め、瀬戸の海への出口となる地政学的位置。古代には飛鳥の外港である難波津から、隋への使節も旅立った。また戦乱の世、台地に城塞を築いた権力者は、堀を抜いて湿原を陸地とした。大阪は成立当初から「水の都」と呼ぶに値したように見える。
 「徳川の平和」のもとでの繁華も同じ文脈で語り直そう。「天下の台所」を、縦横に開削された掘割のネットワークが支えた。道頓堀の芝居茶屋町、淀川舟運や琴平参詣の客で賑わう大川沿いの旅館街、行楽地の天保山など、水路沿いに都市を代表する名所が点在した。
 水際に散在する美しい景観や人々の生業は、ベネチアを参照するまでもない。いにしえより大阪は「水の都」の名に値する世界都市であった。人々はイタリアの都市に由来する美称を、みずからの都市の固有性へと、すっかり置換した。

シビック・プライドの再創造を
 過去に遡ることで、たとえ話は確信に転じた。あとは物語を膨らませ、熟成させる段階にある。大正から昭和初期、大阪は「東洋一の商工地」と市歌にうたう近代化を果たす。
 都心部の川沿いにアメリカ流のビルディング街が成立、「日本のニューヨーク」「東洋のシカゴ」と呼ばれた。紡績や造船を基幹とする工場地帯は「東洋のマンチェスター」「煙の都」の渾名を得る。こうした都市の激変も「水の都」という、より大きな物語に収斂されたようだ。
 しかし戦後の高度経済成長にあって、大阪は美称を失う。産業基盤としての運河網は機能を減じ、下水道という本来の役割が突出する。工場排水と生活汚水が混じる異臭の川は順に埋め立てられ、市民の意識も生活も水辺と疎遠になる。結果、「水の都」という市民の誇りは忘却された。
 近年、状況が変わりつつある。環境問題への関心の高まりと共に、公共空間として河川空間が再評価され、川筋を活かす市民活動が盛り上がっている。私は大阪のシビック・プライドの向上をはかるためにも、今こそ「水の都」の物語を再構築するべきだと主唱してきた。魅力的な都市をめぐる物語は、しばしば時空を越えて、遡り、時に未来を見て、常に上書きされることを待っている。大阪も例外ではない。過去から現在、そして未来に向けて、大阪が「水の都」の物語を再構築することを企図するために著した私なりの研究ノートを、ぜひ一読いただきたい。

(はしづめ・しんや/大阪府立大学21世紀科学研究機構教授)