2011年02月01日

『機』2011年2月号:パナマ運河をめぐり、世界は踊る 山本厚子

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運河の完成に至る各国の攻防
 南北アメリカ大陸が中央に位置する世界地図を開くと、パナマ運河が世界の「ヘソ」のような存在であることが一目瞭然である。

ヨーロッパ人の南北大陸横断の「夢」
 コロンブスは、一四九二年、スペインのイサベル女王の援助で「黄金の国・ジパング」を目指して大西洋へ船出した。そして、カリブ海のエスパニョーラ島に到着し、大航海時代の幕が切って落とされた。彼は第四回航海でパナマに上陸したが、太平洋へは出られなかった。
 スペインは広大な地域を植民地とし、メキシコとペルーに副王領を置いて支配した。イギリスはカリブ海で海賊行為を続けて海軍の基礎を築いてゆく。ヨーロッパ人は、誰もが南北アメリカ大陸を横断する「運河建設」を夢みた。列強による新大陸支配の熾烈な政治駆け引きが始まった。
 一八八〇年、スエズ運河建設に成功したフランス人の外交官、フェルディナン・ド・レセップスがパナマ運河建設に乗り出す。しかし、熱帯病の対策欠如からほとんどの技術者が命を落としてしまう。さらに本国での政治スキャンダルに巻き込まれたレセップスは工事を中断し、パナマ運河建設から撤退を余儀なくされてしまう。彼が設立したパナマ運河会社は破産した。

米国による建設
 一方、キューバで勃発した米西戦争の折、太平洋から南米大陸をぐるりと回って航行せざるをえない軍艦の様子に、手に汗したアメリカの国民の間には、パナマ運河建設が国防に不可欠であるという総意が固まってゆく。
 パナマ共和国の独立を後押した米国は、「パナマ運河条約」を締結し、さらにこの国を保護国としてしまう。一九〇四年、地峡運河理事会が発足して、米国政府が運河建設に乗り出した。黄熱病対策が効果を上げ、洪水、地すべり、地震など幾多の苦難の末にやっと運河が完成された。
 この運河は、海面から二六メートルの高さに航路があり、三段の閘こう門もんで船舶が上下する閘門式と呼ばれる。プールのような閘門の航行可能幅(三二・三メートル)は「パナマックス」と呼ばれ、運河を通行する世界中の船舶の幅を規定している。八〇キロの運河を船舶は約一二時間で通り抜けることが出来る。


米国のパナマ運河防衛策と日本
第一次世界大戦
 一九一四年八月一五日(運河開通日)のパナマの新聞は、ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦を報じる記事で一面が埋まっている。パナマ運河開通は三面記事の扱いであった。しかし大戦を通じて、世界の列強はこの運河が軍事・経済を左右する重大な国際的要所であることを認識する。
 そして、スエズ運河と同様にパナマ運河の中立性が論じられるようになるが、米国は、この運河を自国の所有物のように支配し、その防衛策を、徐々に南米大陸やカリブ海まで拡大・強化してゆく。
 日本政府もパナマ運河開通以前からその重要性を認識しており、軍艦で視察・調査をおこなっていた。また、反米意識の強いメキシコの革命時には「邦人保護」の名目で軍艦を派遣し、メキシコ政府の大歓迎を受けた。南米ペルーへも練習航海と称して軍艦が訪れていた。日露戦争で勝利した日本海軍を、南米諸国の海軍関係者は熱烈に歓迎する。

日系移民
 一八九七年、榎本武揚がメキシコに送り出した三五名の日本人がメキシコ南部、チアパスに入植して日系移民の歴史の一ページを開いた。その後、ペルー、ブラジル、カリブ海のキューバなどに、砂糖黍・棉の栽培のための契約農民として、続々と日本人が渡った。
 パナマ運河建設時には、技師として青山士が参加し、三十数名の日本人が床屋や雑貨店を開いていた。ラテンアメリカ地域には、日本人、ドイツ人、イタリア人の移民が多数定住し、政治・経済活動に影響を与える存在になっていった。そして、米国は日系移民たちの中で活発に事業をする者たちをスパイとして疑った。

対日「軍縮」政策
 米国はパナマ運河防衛を裏に秘め、国際的に「軍縮」を提案し、日本の軍艦建造を強く抑制する手段に出た。日本を仮想敵国とする軍事演習を太平洋に展開し、フィリピンまで海軍を派遣して日本を刺激した。一〇:一〇:六(米・英・日)という「軍縮案」に対抗するため、日本政府は「潜水艦隊の活用、超大型の戦艦建造、航空部隊の増強」という策に力を入れる。

日独接近
 米国との関係が軋み出す一方、日本政府はドイツとの関係を深めてゆく。そして、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニと緊密な関係を保つことになる日本は、日独伊三国同盟を締結する。ヒトラーのヨーロッパでの破竹の勢いに便乗しようとする陸軍の勢力に押された決断であった。太平洋戦争中、日独は潜水艦による物資の補給協力なども行なった。

パナマ運河防衛策
 実は、日本が真珠湾を奇襲する三カ月前、すでに日本の商船のパナマ運河航行は禁止されていた。さらに、米国とパナマ政府との話し合いで、パナマに居住する日本人すべての移動は警察の監視下に置かれていた。
 米国は、パナマ運河防衛策の一環として、南北アメリカ、カリブ海の諸国を経済援助・政治介入というアメとムチで支配していた。この地域はスペインに代わって米国の植民地と化していた。それ故、日本軍の「真珠湾奇襲攻撃」はこれらの諸国を米国の味方につける口実として必要だった。開戦の日、パナマ全土の日本人は収監され、米国の収容所に送られた。

山本五十六元帥暗殺と海軍の「パナマ運河爆破作戦」
山本五十六と石油
 山本五十六は、武官として米国に滞在した折、自費でメキシコの油田地帯を視察するほどの石油、すなわち兵器燃料通であった。故郷、新潟県長岡には日本で唯一の油田があり、メキシコ、ベネズエラの石油、パナマ運河の重要性を彼は認識していたのだ。そして、パナマ在住の天野芳太郎をはじめ、ベネズエラの日系人を通じて情報の収集を行なっていた。
 「真珠湾奇襲攻撃」は山本五十六の提案であり、列強の目を欺くように二五隻の潜水艦部隊が開戦前日にハワイに配備されていた。
 「パナマ運河爆破作戦」は、山本五十六だけでなくドイツ駐在の陸軍高官からも提示され、ヒトラーは南米大陸を制覇するという野望をもっていた。

暗殺と聖戦
 山本五十六連合艦隊司令長官は、南方の島を視察中に米国軍に暗殺されてしまう。米国側の資料によると、太平洋戦争の戦果はまずミッドウェー海戦勝利、次には「山本五十六暗殺」が挙げられている。山本五十六元帥の死を悼み、海軍は聖戦(ジハード)のように、「パナマ運河爆破作戦」を推進する。戦局が悪化していたにもかかわらず、巨大潜水空母四隻の建造計画が着々と進められた。全長一二二メートル、幅一二メートル、深さ一〇メートル、四五五〇トンという仕様の潜水艦「伊四〇〇号」他三隻は、秘密裡に建造された。搭載される特殊攻撃機は「晴せい嵐らん」と名付けられた。

幻に終わった「爆破作戦」
 パナマ運河への日本軍による爆撃作戦は米国の知るところとなる。米国は開戦以前から日本の暗号傍受・解読に成功していた。パナマ全土は米国の基地と化していた。海・空からの日本軍とドイツ軍の攻撃への対策は十分に講じられていた。「パナマ運河爆破作戦」に使用される潜水空母四隻と攻撃機の準備は整い、爆破訓練が石川県の七尾湾で実施されたのは、米軍が沖縄に上陸した一九四五年六月であった。ところが南方での戦局がさらに悪化し、作戦の目的地はパナマから南方に変更せざるを得なかった。そして、原爆投下という悲惨な結果で太平洋戦争は終結する。そして、日本海軍の「パナマ運河爆破作戦」は幻に帰した。

パナマ運河の未来
さらなる攻防か?
 時は流れ、二〇一一年、パナマ運河利用量の多い国の順位は米国、中国、日本で、運河になにか起これば即、私たちの日常生活に直接影響してくることは疑いない。パナマ運河をめぐる攻防の歴史に注目すると、世界史の中の日本が鮮明に浮き彫りにされる。日本人の国際問題への関心の薄さ、独断的な考え方、「長い物に巻かれろ」式の国際感覚は、「平和ボケ」の表れに思える。
 そして、米国への追従だけでなく、「アジアのリーダー、ラテンアメリカ諸国の友好国」という、日本の国際的スタンスを今こそ再認識して、将来を見据える必要があるだろう。
 現在進行中の第三閘門拡張工事は、二〇一四年のパナマ運河建設百周年記念時に完成予定である。一〇万トンの船舶の航行が可能となる時、国際社会でのパナマ運河をめぐる経済・政治的駆け引きは、さらに激しくなるに違いない。

(やまもと・あつこ/ノンフィクション作家)